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    • 2015.08.13 Thursday
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    名古屋公開に向けて。「コラボ・モンスターズ!!」とは何か?(その8)

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       マキノ雅弘は「客が入るのがよい映画」と言った。
      これは客が入りさえすれば何でもよいということではない。
      マキノには自身のストーリーテリングや演出の技量こそが観客を満足させているという自負があった。そして最晩年の彼はこの点で大いに困惑していたと思う。それはハワード・ホークスの最晩年のインタビューを読んだ時も感じた。自分の面白いと思う映画こそが「面白い映画」だという前提が成り立たなくなったのだ。
      酸いも甘いも噛み分けた巨匠でも、そういう段階はやって来る…。

      先日、映画美学校で榎本憲男さんをゲスト講師に迎えた授業があり、そこで榎本さんは、これからの低予算映画の可能性について語った。それは榎本さんが自身の監督作『見えないほどの遠くの空を』を撮る上で立てた戦略でもある。
      低予算映画でも実現可能なこと。それは一つはストーリーの工夫であり、もう一つは感情のフックである。
      (ビッグ・バジェットの映画こそ、この2つは重要なのだが、案外出来ていない)
      しかし、それだけでは十分ではない。3つ目のスペックとして必要なのは、その作品独自のメッセージ・世界観である。
      高橋洋が映画美学校脚本コース開講に当たって述べたメッセージはまったく同じことを言っており
      http://www.eigabigakkou.com/scenario/
      そして「ハリウッドの物真似でもない、韓国映画の後追いでもない、独自のエンターテインメントを発信していこう」はまさにこの「メッセージ・世界観」のことを言ってる。

      うむ、そうなのだ。僕は榎本さんのように分析的に考えるのは苦手だけど、榎本さんの『見え空』と僕の『旧支配者のキャロル』は、期せずして映画撮影を舞台にしたバックステージ物というだけではなく、とても近い戦略を考えていたと言える。
      じゃあ、その「メッセージ・世界観」とは何なのだ?と学生は聞きたくなる。
      それは『見え空』や『キャロル』を見れば判るじゃないかと言いたいところだが、もう少し、無理やり言葉にしてみると、「演技の質」なんじゃないかと思う。
      「演技の質」といっても、それは演技の巧拙のことだけを言ってるんじゃない。
      むしろ演技のキャパシティの問題であり、ある人物をどのような世界観の中でつかまえるかという、脚本の人物造型段階から演出・演技をも含めたアプローチなのだ。

      僕には今日の演技はきわめてキャパシティが狭いと感じられる。
      通り一遍の頭で考えた人物がそこにいるだけのように。そのような幅の中だけの想像力しか、俳優も脚本家も監督も使わないようにしているかのように。
      いわゆるナチュラルな演技だけではなく、今日のオーバーアクトな演技も、かつてのオーバーアクトに比して決定的に違う。
      ナチュラルな演技だからダメだ、という話でもない。
      ここでも手がかりとなるのは歴史であり、つまりは昔の映画だと思う。
      ナチュラルな演技が模索されはじめた頃、たとえば「セミ・ドキュメンタリー・タッチ」と呼ばれたりした時代のキャパシティとは何だったのか?
      僕が今、思い浮かべているのはスウェーデン映画の『刑事マルティン・ベック』なのだが。
      くれぐれも昔に達成された何かの再興を意図しているのではない。かつて人々はここまで考えた。そのことを今日の想像力に利用するのだ。人物を探求することに金はかからない。
      いや、厳密に言えば、俳優にとっても、脚本家にとっても、監督にとっても、そこが一番大事なんだからかかって欲しいのだけど。

      『見え空』や「コラボ・モンスターズ!!」の俳優陣はそこに立っていると思う。
      (続く)


      『刑事マルティン・ベック』

      名古屋公開に向けて。「コラボ・モンスターズ!!」とは何か?(その7)

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         大阪公開が終了したと思ったら、もう明日は名古屋公開です。

        さて、大阪公開最終日は、古澤君と僕のトークショーがあったのですが、特集「ミニコラボ・モンスターズ!!」で上映した西山洋市『死なば諸共』と僕の『狂気の海』を受けて、古澤君が「『死なば諸共』は低予算で時代劇を、『狂気の海』は低予算で特撮映画を撮ろうとしている。ひょっとしたらよりまともな制作態勢で時代劇や特撮映画を撮ろうとしたら、それはかつての映画に比して、相対的な貧しさに陥るだけなんじゃないかと思う。『死なば諸共』や『狂気の海』はそこに陥っていない。そういう姿勢こそが今後の映画作りにおいて重要なんじゃないか」と発言してくれた。
        これは「コラボ・モンスターズ!!」の根本的な考え方を端的に言い表した言葉なんじゃないかと思う。
        低予算であること、それを銘打つことは、しばしばそれが自主映画的で安っぽい(貧しい)ルックを伴っていることの言い分けのように受け止められるのだけど、僕たちは低予算という言葉を、もっとポジティブな可能性をはらんだものとして使っている。低予算でありながらあくまで「娯楽映画」と言い切るのも、そこにある。
        では、ポジティブな可能性とは何か?と言うと、それはこの連載で語ってきた通り、より本質的な表現は、低予算を逆手にとることで見出される、ということなのだ。
        しかし、「本質」という言葉はたぶん限定された伝わり方しかないだろう…。
        たとえば「映画になっている」「なっていない」といったことを、我々は日々、自主や商業にかかわらず様々な画面に向き合う中で身にしみて感じているわけだが、こうした言葉は、否応なく「秘教的」な、ごく限られた人々の間でうなずき交わされている閉鎖的な教養のように受け止められてしまうだろう。
        「娯楽映画」という以上、それはマキノ雅弘が言った通り「客が入るのがよい映画」という大原則に立たねばならない。
        だが、今日は、もはやそうも言っていられない大変動の時代にあるのだ…。
        何が「貧しさ」であり、何が「面白さ」なのか。
        僕たちはこのことを、上映活動を通して浸透させていかねばならない…。
        続きます。


        シアターセブンでのトークショー

        大阪・名古屋公開に向けて。「コラボ・モンスターズ!!」とは何か?(その6)

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          さて、大阪公開も残すところあと1日となりました。


          先日、映画美学校生の清原君とツイッターでやりとりしていて、「内向き」というキーワードが出ました。

          この言葉は映画をめぐって、最近よく耳にするように思います。

          いや、映画だけではないかも知れないが。

          「内向き」とは、映画の表現について言われることもあるし、観客というマーケットに向けての戦略(の欠如)という意味合いでも使われます。

          ただ昨今の「内向き」という言葉の使われ方がややこしいのは、表現と戦略の意味合いが奇妙な形で転倒しているところにあるんじゃなかろうか。

           

          表現としての「内向き」は、昔からよく自主映画に見られた傾向だけど、作者自身のモノローグ、そのモノローグの延長上にあるごく内輪の人々だけに向けられた閉じた表現、という意味合いだと思います。

          じゃあ、ごく一部のコアな客層に向けられた芸術的な映画、たとえばストローブ=ユイレやセルゲイ・パラジャーノフの映画の表現は内向きなのか、というと、かつてはそんなことは決して言われなかった。

          芸術だから素晴らしい!という風に、芸術という名の下に居場所が保証されているからではなく、表現としてラディカルで突き破っているからです。

          一方で、そういう映画は、権威ある目利きの人たちが真っ先に賞賛するから、それを誉めることを一種の知的特権のように勘違いして振る舞ってしまう傾向は世の中に確かにあるだろうし、「シネフィル」という言葉が揶揄的に使われたりするのも、そうした特権意識への反発が多分に含まれているでしょう。

          だが、だからといって、ラディカルなものまでを、その反発の中に囲い込んでしまうのは、それこそ閉じた振る舞いです。

          世の中には容易には判らないものがあるんだという、我々が実人生の中で日々直面している難解さに対するのと同じ、まっとうな感覚で向き合えばよい。

           

          では、ラディカルな表現とは、客層が限定された芸術映画においてしか可能ではないのか?

          なるほど芸術映画という括りの中ならば、一見難解な表現も何となく居場所が見つけやすく、流通の仕方としても判りやすい面はあるでしょう。

          しかし、僕は、娯楽映画の中に、堂々とラディカルが達成された瞬間の衝撃にこそ深く魅入られてきた人間なのです。

          娯楽映画のラディカルこそが、映画というメディアならではの、表向きの物語とは別の次元のことまでを同時に表現できてしまう特性をフルに活用している点でより徹底して突き抜けていると感じる。

          ただし、これはまことに険しい道である。

          実人生の難解さとは比肩すべくもない単なる難解さに陥るだけの、戦略上の失敗のリスクが常につきまとう。

           

          商売である以上、リスクを回避しようとするのは、ごく当たり前のことです。

          そして巧妙にリスクを回避したものが流通し、商売として大成する。

          だが、このリスクの回避において、あまりにもしばしば用いられる手が、表現としての「内向き」になっていないだろうか?

          そうした映画が目指しているのは、何百万人、時には世界市場で何億人もの「内輪で判ってくれる人たち」を作り出すことではないか?

          僕がよくスピルバーグを引き合いに出すのも、彼の映画に最初に「内向き」の表現のマーケット戦略を感じてしまったからでしょう。

          たとえば彼の映画に登場する「光」には、何故光の恐ろしさが写ってくれないのだろうか? 大流通を達成するために、彼は懸命に光が持つ毒性を消そうとしているのか、それともそもそも描けないのか?

          いや、ひょっとしたら、『インディ・ジョーンズ/クリスタルスカルの王国』でとうとう核爆発の閃光にまで踏み込んだ彼は、十分に自覚的に、何とかして光の持つ毒性を滑り込ませようと四苦八苦してるのかも知れない…。

           

          ともあれ、僕が「感情移入」という言葉をひどく嫌うのも、そこに「内輪」を作り出そうとする意図を感じてしまうからです。その「内輪」が何億人ものレベルに達した時、ごく一部の者たちが莫大な数の人々に向かって「あなた方は内輪だ」と言っている奇妙な構図が出来上がる。もはや「内輪」であることが自覚すらされないほど当たり前になった時、このような一部の人々は単に自ら孤高になりたがっているだけにしか見えないかも知れません。

          それが最初に言った転倒です。

          転倒だとハッキリ言えるのは、自分は孤高ではなく、ただ本当のことを言ってるに過ぎないと思っているからです。

          あ、ところで『旧支配者のキャロル』も、前作『恐怖』同様、光を禍々しく撮ろうと四苦八苦した映画です。

           

          それでは古澤君と大阪に行ってきます。

          観客のみなさんとどんなやり取りが生まれるか、そこから考えたことをまた報告するつもりです。



          大阪・名古屋公開に向けて。「コラボ・モンスターズ!!」とは何か?(その5)

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            観客があらかじめ抱くイメージを裏切るものこそがリアルと受け止められる、その可能性について、前回書きました。

            むろん、ただ裏切ればいいというものではなく、多くの場合、観客がリアルと受け止めるのは、自分のイメージと一致するもの、イメージ通りに納得できるものです。

            これは昨今始まった傾向ではなく、ずっと昔からそうだったと思う。

            もっとも昔はピアノ線見えまくりの特撮映画を人々は「あ、見えている」と思いつつ、しかしそれが本質ではないと何となく了解しながら映画を楽しんでいた。特撮スタッフは決して見えてもいいと甘えていたわけではなく、ピアノ線が見えるという限界をいかに超えるか(もし超えられたら、それ自体が、特撮が特撮に見えないという本質的な体験になる)に血道をあげていたわけですが。

            しかし今日ではピアノ線は見えたら噴飯モノ、あるいはレトロ趣味として、その趣味が好きかアンチかという反応にしかならない。

            見えた、見えないが本質なのかどうかという話にはなかなかならない…。

            その意味で、観客のリアルの幅はより狭まったとも言えるが、繰り返し言うように、その現状は変更出来ない。

             

            一方で「量が質を超える」という言葉がある。

            西山洋市が「髷を着けない時代劇」というコンセプトから新しいジャンルを生み出すためには、まず作品量が必要だと言っているのは、そういうことだろうし、それは一番はじめに話したプログラム・ピクチャーの問題とも関わって来る。

            昔、友人たちと時代劇のリニューアルについて話し合っていた時も、ある日、突如として、電柱が写っていてもいいってことになる、そんなパラダイム・シフトの可能性を考えたりした。

            必ずしも妄想とは言えない。かつての撮影所が築き上げた時代劇のクオリティーもまた、ある時代の制約の中で生まれたリアルに過ぎない。

            マカロニ・ウェスタンや無国籍アクションは「安っぽい」と思われつつ、それ以前の撮影所が築いたリアルを更新してきたのだ。

            むろん、今日それは、より困難な道ではある。

            歌舞伎の黒子が「見えるけど見えないもの」として扱われるような「文化」を一挙に認知させようというのだから。

            何か決定打が必要になる。それが「ヒット」ということなのだが。

            香港映画がまともに輸入されなかった時代を、『燃えよドラゴン』が変えてしまったような。

             

            もう一つ、西山洋市は映画史の読み直しの可能性についても語っている。

            たとえば藤田敏八の映画を「髷を着けない時代劇」として読み直すといった。

            http://www.facebook.com/photo.php?fbid=328559650539492&set=a.327187734010017.76892.254894421239349&type=3&theater

            映画をめぐる支配的な言説、すなわちイメージを、批評の言葉が撃つことは不可能ではない。かつてヌーベル・ヴァーグや蓮実重彦の批評はそれを行い、新たな客層を掘り起こした。

            結局その試みは「シネフィル」という知的な教養のイメージの中に回収されてしまった感もあるのだけれど、今日の批評家や作り手たちは、既存のイメージへと回収されない言葉を探そうとしていると思う。

            僕もまた、西山洋市とは違った視点から、映画史の読み直しを企画中だ。

            続きます。




            大阪・名古屋公開に向けて。「コラボ・モンスターズ!!」とは何か?(その4)

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               低予算映画における「リアル」の問題。真のプロフェッショナルたちは、今日の観客の感性に向けて、いかなる作戦を立てるべきなのか。

              アメリカ映画は、インディーズも含めて、常にここから考えている。

              ヨーロッパ映画はどんなに頑張って娯楽映画を作ろうとしても、それが時おりヒットすることはあっても、「アメリカ映画」にはなれない。まるで、アメリカの監督であれば誰にでも与えられている遺伝子が、ヨーロッパでは、ポール・バーホーヴェンのようなごく一部の才能にしか許されていないかのようだ。

              いや、事態は監督だけの話ではない。金、時間、市場、そこで育つスタッフ・俳優、そういったもの諸々の融合の結果なのだ。

              では、日本はどうかというと、かなりイイ線まで行っていた歴史がある。

              日本ほど「アメリカ映画」について考えた国も珍しいのではないか?

              だが、今や日本映画は、ゼロ戦の構造のごとく、ギリギリの本質のみの設計を強いられている。相も変わらずゼロ戦しかないのか…。

              ましてや低予算映画は、本質の中のさらなる本質にしか時間も金もかけられない中で、しかし「リアル」でなくてはならない。

               

              そのための一つの手は、自分たちが隅から隅までよく知り抜いている、そしてそのシチュエーションを作り出すのに金がかからない題材を選ぶことではないだろうか。

              それはたとえば、有り体にいえば、映画を作る話を撮る、ということで、『旧支配者のキャロル』はその手に挑んでみた、と言える。


              昔、中田秀夫監督と『女優霊』を作った時、これもバックステージ物だったのだが、ひじょうに意外な反応だったのは、撮影スタッフが休憩しているシーンで、監督が独りでポツンと弁当を食べている、あれがリアルだと言われたことだった。僕たちにしてみれば、当たり前によく知っている現実をなぞったに過ぎない。ところが観客にとってはおそらく、監督という存在について抱いているイメージが大きく揺らぎ、かつ新鮮なヴィジョンが示されたように思えたのだろう。

              人々の心に一斉に取り憑いてしまうイメージ。イメージは、人々を言われたわけでもないのにいつのまにかそ思わせれに従って反応させつまりは考えなくさせてしま。前回、変更不能といったのはそうしたイメージの働きだ。

              腹の立つ話ではある…が、ここでことさら「反時代」を標榜したところで、それは自己満足に過ぎない。作り手たちはみな、この局面に向かい合っている。


              だが、この変更不能の現実から堂々と出発した時、ひょっとしたら、イメージを裏切るものこそが「リアル」という「イメージ批判」の段階に至れないだろうか。その飛躍を生み出し、斬新なヴィジョンをもたらすためには、我々は取り扱う現実を隅から隅までよく知っている必要があるわけだが…。

              ここには「リアル」をめぐる問題の一つのヒントがあると思う。

              さらに続きます。




              大阪・名古屋公開に向けて。「コラボ・モンスターズ!!」とは何か?(その3)

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                 低予算を逆手にとった短篇・中篇映画の可能性について前回書きました。
                それは、大資本の映画がしばしば陥りがちな“硬直”から自由でいられるという意味で、一種の贅沢品とも言える。

                しかし、低予算であることは、当然ながら作り手たちに一つの問題を突きつける。
                今日の観客はかつて以上に、リアルであること、もっとかみ砕いて言えば「もっともらしくあること」をフィクションの入り口に要求するということです。
                おそらく、今日の観客の間には、たとえばロジャー・コーマン映画のいわゆる“B級感満載”の「安っぽさ」や「作り物感」は本気で向かい合えるものではない、という了解が成立してしまっている。いくらロジャー・コーマンを敬愛する人々が熱っぽく、これこそが虚構の正しいあり方だと擁護したところで、それは変更されるものではない。
                ラリー・コーエンの映画がなかなか本気で評価されないのも同じような事情があるからでしょう。映画の社会的地位や影響力は明らかに下がっているにもかかわらず、映画は高級さ=もっともらしさが要求され、いい加減さが許される(故に突然変異のダイナミズムが生まれ得る)下位ジャンルの文化とは見なされない。

                いや、こうした世知辛さは昨今に始まったことではないかも知れない。サミュエル・フラーの映画が受けてきた扱いを思えば、世の中は昔からある種の「安っぽさ」「作り物感」に対して不寛容であったと言える…。

                だが、そうした傾向を嘆いたところで始まらない。どんなフィクションが受け入れられるか、その今日的な感覚を決定するのは、いつの時代も作り手ではなく、観客なのだから、真のプロフェッショナルたちはまさにこの第一線で作戦を立てようとしている。
                低予算映画においてもしかり。
                低予算だから、半ば自主映画のような制作態勢だから、という理由でもっともらしさが損なわれたと観客が感じたら、(作り手にそんな言い分けめいた考えはなくても)たちまちそれは「甘え」として指弾されてしまうでしょう。

                「コラボ・モンスターズ!!」で、低予算で虚構を語ることの困難に最も正面から挑んだのは西山洋市の『kasanegafuti』でしょう。僕の大学時代の先輩(映画関係者にあらず)は今回、『kasanegafuti』を見て、とても面白がってくれた。彼は、西山洋市が語る「髷をつけない時代劇」というコンセプト↓を知らずに見たのだけど、ほぼ的確に狙いに反応してくれた。
                http://www.collabomonsters.com/message.html
                しかし、その彼にしても、冒頭登場する赤ん坊にはひっかかりを覚えたそうなのです。
                ふーむ、僕にとっては、それはまるで本質的な問題ではないのだが…。
                虚構における“本質”と“もっともらしさ”の配分はかくのごとく難しい。
                みなさんはどうでしょうか。
                いわゆる「リアル」の問題については、もう少し書いてみます。



                大阪・名古屋公開に向けて。「コラボ・モンスターズ!!」とは何か?(その2)

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                   東京公開をひとまず終えて、「コラボ・モンスターズ!!」で試みたことは何だったのだろうと改めて考えてみるに、浮かび上がってくるのは「短篇・中篇映画の可能性の探求」ではないか、という考えですね。
                  映画美学校はお金がないので、とにかく短篇・中篇映画を量産してきた。
                  このお金がない中でやむを得ず選択してきた「量産」が、期せずして重要だったのではないか。
                  僕はこうした短篇・中篇の試みを、個々バラバラに作られた映画ではなく、あえて「プログラム・ピクチャー」と呼んでみたい誘惑に駆られます。

                  「プログラム・ピクチャー」と言っても、今ピンと来る人は少ないでしょう。
                  劇場映画が週替わりで、番組表を埋めるためにバカスカ量産されていた時代の言葉です。
                  そこにはむろん、「時代劇」なり「任侠映画」なりの安定した路線があり、何よりも興行を支えるスターたちがいた。その中で1本1本ピンで勝負するのではなく、年間を通して収支がトントンになればいいぐらいの感じで、けっこう無責任に、しかし職人芸の極みとして時には大いに実験精神も発揮しながら、「プログラム・ピクチャー」は作られてきた。

                  「プログラム・ピクチャー」の最大の意義は、何しろ本数が多いので、監督や俳優・スタッフが場数を踏み、技術や価値観を鍛え上げることが出来た点にあると思います。
                  社運を賭けた超大作よりも、ある意味、贅沢品であったと言えるかも知れません。何しろ単独でヒットを狙わなくてもいいのだから。
                  現状には本来の意味での「プログラム・ピクチャー」を成立させる条件は何一つないのだけど、しかし場数を踏み、技術や価値観を鍛え上げる土壌がそこにあるならば、それを「現代のプログラム・ピクチャー」と呼んでもいいのではないか。その可能性が短篇・中篇映画の量産の中に見出されないだろうか。

                  今日、長編映画を撮ろうとすると、作り手はどうしても慎重になってしまう。企画もなかなか通りにくい。しかし短編・中編ならば、より軽いフットワークで動けるのではないか。
                  それも個々バラバラの映画としてではなく、「プログラム・ピクチャー」的な括りとして観客に提示することが出来たら、興行までの道筋が見えやすくなるのではないか。
                  僕たちはあらかじめある価値観に従ってではなく、短編・中編を撮り続ける試みの中から知らず知らず、こういうことを見出していったように思うのです。



                  大阪・名古屋公開に向けて。「コラボ・モンスターズ!!」とは何か?(その1)

                  0
                     いよいよ大阪公開が6/16に迫りました。
                    これを機に、5月の東京公開を終えて、改めて考えてみたことを書いてみます。
                    「コラボ・モンスターズ!!」とは何か、そのエッセンスは公式サイトの
                    「コラボ・モンスターズ!!」宣言↓に書いてある通りだけど
                    http://www.collabomonsters.com/about.html
                    やはり映画は当初の企画意図だけではなく、実際にお客さんに見て貰うことで、その意味合いも変わってゆくものなので。これから大阪・名古屋での公開を通してもまた変わってゆくでしょう。

                    ところで、京都のとある大学には、今や時代劇が撮れるスタジオが完備されていると聞きました。セットが組める大道具さんもいるし、結髪部まであって鬘も揃っている。撮影所を支えて来た技術陣が先生となって学生たちの指導に当たり、実際にそこで映画を撮っているのだそうです。
                    いやはや凄い時代になったもんだと思います。
                    映画学校がかつての撮影所の機能を果たしつつあることは、以前から僕たちも言ってることなのだけど、事態はそれを超えるレベルで進行しつつある。
                    僕たちは「コラボ・モンスターズ!!」の母体となった映画美学校を「撮影所と映画サークルが融合したヌエのような存在」と呼びましたが、「変種」というのは、それにふさわしい名前が常に与えられていない、イレギュラーな判りにくいものです。
                    しかし、この「変種」が、これからの映画作りでは当たり前になってゆくかも知れない。
                    プロ達は自主映画と商業映画の間にある可能性を考えざるを得なくなり、やがてそれは「間」ではなくなるかも知れない…。

                    それにしても大学は金を持ってるなあ…。
                    映画美学校にはとてもこんな設備はないので、ひたすら低予算の可能性を探究してゆくしかない。そこで得られるフットワークの利点についてまた書きます。



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