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    • 2015.08.13 Thursday
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    「コラボ・モンスターズ!! の映画悪」トークライブ

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      昨年11月22日に行われた「コラボ・モンスターズ!! の映画悪」トークライブのさわり、アップします。
      全文を起こしたものは、次回3月9日(日)「コラボ・モンスターズ!! × 塩田明彦の“映画術”」でオマケに配付します!

      「コラボ・モンスターズ!!の映画悪」トークライブ(万田邦敏×西山洋市×高橋洋)


       
      〇「映画悪」と「映画善」?
       
      西山 チラシにも書いてある通り、「映画と悪は切っても切れないものである」というのが、この企画の最初の取っかかりです。当初はただ「コラボ・モンスターズ!!の悪」というタイトルを掲げたんですが、ちょっと物足りない気がして「映画悪」というキーワードにたどり着きました。といってもそれは精密に定義されているものではないし、そもそも「悪」と感じるものの基準点は人によって違いますよね。ただ、どうしようもなく直感として、「映画」と「悪」は切っても切れないし、「悪」が映画を面白くしてくれているはずだと考えました。
       じゃあ、どんな「悪」が映画を面白くするのか。今日上映された『タートル・マウンテン』で考えると、原作は鶴屋南北の歌舞伎なんですね。鶴屋南北は悪人を描くのが得意な作者で、『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門がその代表的なキャラクターだと思うんですが、江戸時代から今に至るまで、伊右衛門はずっと「悪」であり続けている。2番めに上映した同じく南北原作(『桜姫東文章』)の『菊と桜』にも権助という名前の悪人が出てきます。『東海道四谷怪談』で言うと、伊右衛門とコンビを組んでいる直助というキャラクターに近いんですが、歌舞伎由来の、日本の伝統的な物語に登場する典型的な悪、というのがまずあるということです。
       ただ問題は、3本目に上映した、万田監督の『葉子の結婚(土曜日)』。ここに登場する「悪」は極めて現代的ですよね。「こいつが悪い」というのがはっきり示されるのではなく、悪があちこちに伝播して分散していく感じ。今日同席している高橋洋監督の『旧支配者のキャロル』もそうです。
       といったように、「映画悪」と言われてパッと思いつく悪人キャラというのが、何通りかありますよね。映画に登場する「悪」を、ある程度は分類することができる。それらを総称する言葉として「映画悪」っていう造語を考えたんですけど、その一方で、「歌舞伎悪」とか「演劇悪」というのはどうも、うまく像を結ばないなという話を、高橋監督とFacebookで交わしたんです。
       
      高橋 技術的に映画が不可能だった時代に、鶴屋南北は「映画悪」を造形したんじゃないかと。
       
      西山 なぜ「歌舞伎悪」というワードに違和感を覚えるのかというと、歌舞伎はもともと「悪」だったから、それをわざわざ「悪」定義する必要がなかったのではないかという点があります。江戸幕府からだけではなく、庶民から見ても、吉原と同じように歌舞伎は、決して善良なものではなかった。特に歌舞伎はいろいろな経緯があって、女性が舞台にあがることが禁じられたんですね。物語に女を登場させるために、仕方なく男が女を演じる女形というものが成立した瞬間に、今ある歌舞伎の「悪」のひとつの形態が出来上がったんじゃないかと思うんです。男が演じる女が、本物の女性よりも、女性らしく、しかも妖艶に見える。そういう点で、女形と映画は似ていると思います。男性が女性を現出させるために、あらゆる演出を尽くす。映画も、現実ではないものを、より現実っぽく見せるために演出でフィクションを作り出す表現ですよね。その辺に「映画悪」の根本があるのではないかと。ところが近年、そういう女形的な映画が劣勢にあるように思うんです。演出でフィクションとしての現実を作り出すのではなく、逆にフィクションをそこらに転がっている現実に似せようとするような演出が多いような。それは高橋くんがクリント・イーストウッドを批判するときの言い方と同期するんですけど、現実のコピーにすぎないものに、人間の倫理を当てはめて良しとする、それは誤魔化しではないのかと。それは高橋くんに言わせると、どうもハリウッドがそういう指令を出しているのではないか、と(笑)。
       
      高橋 そうですね。そのほうがたぶん楽だし、流通するから、これはイーストウッドの陰謀なんじゃないかと考えたんですけど(笑)。

      ……てな感じで、この後もレクター博士とか『狩人の夜』とかマルクス兄弟とか、万田さんも交えたトークが続きます。
      続きは次回「映画術」のオマケで! どうかよろしくお願いします!

       

      「コラボ・モンスターズ!! の好奇心」トークライブ・レポート(その3)

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          〇音としてのせりふ


        高橋 海外の短篇映画祭に話を戻すと、どれも普通にうまいんですよね。15分で何ができるかを心得ていて、普通なんです。で、「今あなたがやっていることは古い」という、一番重要な問題に気づかずに終わっている。こんなことなら何十年も前からやってるよ、それと同じことを反復してていいのか、という一番大事な問いを自らに発することをやめてしまっている。大事なのは、『INAZUMA 稲妻』で西山さんが、最初にあがってきたホンを読んで「これは何かひとひねり加えないとまずい」という直感が走った、まさにその感覚だと思うんです。それを入れていかないと、新しいものにはならない。でも今ってみんな、あまり歴史を意識しないですよね。10年前にどんな映画が撮られていたのか、どうでもいいっていう感じでしょう? 歴史から自由になるってのはそういう形でしかやって来ないのかも知れないけど。

        大工原 それはすごく感じますね。自分が撮る映画のことしか興味が無い人が多い。あと、さっき西山さんが言われたように、普通の大学生で自主映画を撮っている人でも、描写はすごく達者なんですよ。たとえば、映画が始まって、5〜6人のグループが無言のままに動くワンシーンだけで彼らの関係が伝わってきたりする。「何かが起こってる」ことを見せる描写はとても巧いんだけど、セリフをしゃべり始めたとたんに、ものすごく幼稚な物語が展開し始める。あれは、何なんですかね、いったい。

        高橋 せりふについては結構みんな、古いんですかね。「普通そういうとき、こういうこと言うよね」っていうことを平気で書いちゃうし、それを俳優に言わせることに何の痛痒も感じない。自分で書いて、自分で声に出して読んだ時に「やばい」と思ってくれよと(笑)。

        西山 絵に対するセンスは発達してるんだけど、音に対するセンスはもしかしたら後退してるかもしれないですね。せりふを聞いて、その音がどうなのかを判断する力。内容的にありふれたホンというのは、音的にもつまらないはずなんです。それはホン読みをしてみればすぐわかります。じゃあどう変えたらいいのか。いや、どうにもならない、となったら切るしかない。そこで僕なんかは時間がかかっちゃうんだけど、万田(邦敏)さんなんかは一瞬で「ここ、いらないね」って言いますよね。

        高橋 僕は名古屋の大学でも教えているんですが、学生が書いてきたホンの読み合わせをするんです。最初は「棒読みでお願いします」って言うんだけど、みんな、それがわからないみたいで発声できないんです。「じゃあ、普通に読んでみて」って言うと、まるでアニメーションの世界が展開されているみたいになるんですね。海外のテレビドラマの吹き替えみたいな(笑)。聞いてみたら、声優を目指している人たちとかけっこういて。だから全部、せりふがそれなりに言えちゃう。でも、それなりに言えちゃうと、ダメなんですよ。面白いもつまらないもなく、ただ、全部言いこなしちゃうから。だから僕が意図するところの「棒読み」がなかなかできなくて。

        西山 でもそこから何かを構築していくことはできるじゃないですか。ちょっと時間はかかるだろうけど、まったく別の何かが見つかりそうな気がする。音声としてのセリフは身体性にも影響を及ぼすはずですから。(例えば万田さんの初期のテレビドラマ『胎児教育』ではアニメ的なセリフ回しによって独創的な人物の動きが作られる面白い演出がなされていました。)

        大工原 西山さんは、ホン読みの時は、読んでる人の顔を見ていますか?

        西山 見てないです。音だけ聞いてる。顔を見ちゃうと、それに引っ張られちゃうから。だから音声中心主義というか、シナリオに書いてある文字としての言葉を、音としてどう出すのかということに対して、みんなでもっと考えていければ、何か新しいものが見つかると思うんですけどね。

         

        【おまけトーク】

         

        高橋 さっき大工原さんと楽屋で、やはり演出について人に伝えようとすると、うまく言葉にならないものだなあという話をしたところです。そこで、よろしければ、皆さんから率直な疑問や質問をぶつけていただくというのはいかがでしょうか。

         

        ――西山さんがおっしゃった、「音としてのせりふ」についてもう少し詳しく聞かせてください。

         

        西山 音楽の楽譜って、「ここは強く」とか「弱く」とか、いろいろと記号がつきますよね。映画のせりふの演出も、イメージとしてはあれに近いんじゃないかと思います。せりふというのは、単に「きれいに言う」「よどみなく言う」のではなく、嫌な響きだったり、汚く聞こえたり、芝居の内容と密接に関わってくるものなので、音楽の記号とは種類や内容が大分違ってきますが。「ここで間をおいた方がこのせりふは生きるんじゃないか」とか「このせりふを聞かせたいからここは強く」みたいなことをずっと考えて操作していくと、それは、音楽的なリズムやトーンにまつわる作業と非常に似てくるんですね。せりふの意味内容を超えた、頭を直撃して体感できる何かになっていくと思うんです。『旧支配者のキャロル』でも、全体的に、なんとも言えないトーンがあるじゃないですか。

        高橋 それは、俳優さんにも言いますね。音として何度も出してもらって「今のでお願いします」って。

        西山 それは必ずしも、演出家自身の好みや恣意的なものではなくて、「どうしても必要なもの」なんですよね。シナリオや芝居、内容が要請するもの。いかに、内容を浮き彫りにしながら、音としても立ち上げるかということを、気にしながら「演出」をするんですよね。

        大工原 その感覚をつかむのは、プロの役者と、素人である映画美学校の生徒が演じる場合と、どちらが早いですか。

        西山 基本的にはプロの方のほうがうまいし、演出家と同じようにシナリオを読み込んできてくれますね。素人の役者は、シナリオそのものをどう読むかという訓練が要るから、時間がかかったりします。ただ、役によっては、プロの技術が邪魔になることもあるんですね。で、一旦フラットにしてもらって、そこから新たに別のものを探してみたりと、いろんなケースがあるので、一概には言えないですね。



        大工原 『旧支配者〜』では、劇中映画のスタッフ役が映画美学校の受講生ですよね。そこにプロの俳優が混じっていくわけですが、その差異による濁りが全体的に無い。高橋さんは、俳優にまず言わせてみて、セリフを変えることはあるんですか?

        高橋 ホンを書くときに、自分の中で音が聞こえてきながらせりふを書くんですよ。その通りに再現しようとは思わないんだけど、だいたい、ヴィジョンがはっきりとある。それを演じてもらって「あ、これはどうしようもなく違う」とか、俳優さんが出してきたアドリブの方がはるかに上だったりとかすると、変えたりもしますけど。でも基本は、僕に見えているトーンを押し付ける感じです(笑)。

        大工原 西山さんはどうですか。

        西山 僕は、人に書いてもらう場合が多いので、簡単に変えたりはしないですね。ただ、俳優も人ですから、あまりうまくできないことも、あるわけです。その人固有の何かと、こちらの要求とが、ズレていたりすることが。でも、シナリオを読んで最初に「いい」と思ったせりふは、なんか、あるんですよね。そこはゆずりたくない。

        大工原 それは、ホン読みの段階で?

        西山 ホン読みもそうだけど、実際に現場へ行くと芝居が変わったりしますね。物理的に、距離や位置関係や身体の向きが実際の場所に合わせて変わったりするから。ホン読みではうまく行かなかったところが良くなったり。いろいろと、複雑怪奇だなあと思いますね。探り探りです。探さないと、ありきたりなところにはまってしまう。

        高橋 そうなんですよ。だいたい、危険信号が灯るのは、わかってることをなぞってるときです。やってても面白くないし、どうやったらそこから脱することができるのかもわからないし、でも現場はどんどん進行していくし。

        西山 ……ところで『純情No.1』のラスト、節分の豆まきのシーンがありますけど、あれはかなり過激な終わり方でしたね(笑)。

        大工原 当初は、トイレでキスするのがラストシーンだったんですけど、撮ってるときに「女からの強引なキスで終わるなんて万田さんの『接吻』みたいだな」って思って。じゃあ、最後に字幕を出そう。「接吻」はおこがましいので「節分」で行こう、と。で、豆をまいたわけです。(一同爆笑)

        高橋 それも、ある種の直感ですよね。「キスで終わっちゃいけない」という何かが降ってきた。何かを崩す、壊すことでしか終われないっていう。

        西山 「なぜ節分なんだろう」とは思いつつ、「要らない」とか「はずれてる」っていう感じが全然しなかったですよ。

        高橋 よくわからないんだけどラディカルなことが最後に起きた、という感じがしましたよね。

        大工原 僕としては単純に、万田さんが笑ってくれるかな、って。でも万田さん、何度か見ているのに、全く気づいてくれませんが(笑)。

         

        ――『旧支配者〜』で撮影現場を映した画と、フィルムに落とした画とがありましたが、あれは演出の時に、どこをどうするか、というのを決めておられたのですか。

         

        高橋 16ミリフィルムというのは使える分量がとても限られているので、ここぞというところでしか使えないんですね。だから16ミリで撮るところは、最初からかっちり決めていました。そういう、フィルムをケチるという文化が、日本映画にはあったんですよ。それでカット割りの技術も鍛え上げられてきたんだけど、今やデジタルでいくらでも回せるわけですからね。でもそれはそれで、時代によって撮り方が変わっていっても、全然いいと思います。

         

        ――『旧支配者〜』では、俳優さんのアドリブはあったんでしょうか。

         

        高橋 津田寛治さんが、激しくアドリブを入れてこられましたね。ナオミがマットレスから起き上がるシーンで、カットがかかった後、すかさずそのマットレスの下から台本を取り出してめくっている、というのは、津田さんがすごい真顔で「やっていいすか」って。津田さんに圧倒されながらつけたディテールが、いっぱいあります。

        大工原 生々しかったですね。ありえないこともいっぱいあるんだけど、気にならないくらい、リアルな撮影風景に見えた。

        西山 不思議な塩梅でしたよね(笑)。

        高橋 ということでそろそろ時間です。「コラボ・モンスターズ!!」、次回はいよいよ、今日は仕事で来れなかった古澤健の特集です。みなさん、どうかご期待下さい。(拍手)


        2013524日 アップリンク・ルーム)


        「コラボ・モンスターズ!! の好奇心」トークライブ・レポート(その2)

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          〇「演出」に内臓された「編集」と「キャメラ・ポジション」


          高橋 ある物語を短編の尺に圧縮していく時に、我々が利用できるのが「リアリズムの関節をはずす」っていうことだと思うんですよ。『INAZUMA 稲妻』で言うと、あれは撮影現場でのお話だけど、撮影現場のリアリティを軽く飛び越えてますよね。スタッフやディレクターらしき人物が画面外で話してる声が聞こえてきて、ある種のリアリティーは保ちつつ、途中からよくわからなくなってくる。現場で俳優の携帯が鳴るなんて、ありえないじゃないですか(笑)。あと、落とし穴が、初めはリアルに「落とし穴」なんだけど、あれが冥界へつながる装置として機能しはじめて「それでいいんだ!」ということになっちゃってる。ああいう飛ばし方を、短編ならできるんですよね。たぶん、みんな許してくれるだろうと。



          大工原 あの洞窟って、最初、病院として出てきたじゃないですか。

          西山 病院として出てきた岩窟はあの洞窟とはまた違う場所なんですが、すぐ近所で見つけた場所です。あの場面はシナリオ上は、普通の病院の待合室という設定だったんです。ところが、これは低予算の映画の現場ではよくあることですが、5日で撮るためには、病院にロケへは行けないんですよね(笑)。病院を撮るためだけに、まる1日つぶすことはできない。そこでカメラの芦澤さんやスタッフと相談して「……(近場の)ここでやっちゃえば?」って(笑)。そういう、ある種のノリの共有っていうか、現場にそういうものがあると創造的に働きますね。ノリといっても、根拠のない悪ノリで完全にシナリオの本質からズレてしまうのではなく、あくまで本質は踏まえた上でぎりぎりつながっているようなことですよね。

          大工原 西山さんの作品は、そこが絶妙だと思います。

          西山 大工原さんの短編作品は、脚本のレベルで、どんなに勢いで突き進むようなものであっても、映画としての仕上がりを見ると、長編映画的な、叙事詩的な時間の持続が常に構築されているように感じるんです。『INAZUMA 稲妻』は、そこが完全にブチ切れている。そのとき根拠となってくるものは何かというと、ある種の連想みたいなもので。単に断絶が起こるのではなく、前と後がなにかしらの連想でつながっていくという感じ。脚本の片桐が書いたシナリオが、そうなっていたからだと思うんですけど。って、今日観て思ったんですけどね(笑)。だから、あの話を長編化することはできても、このスタイルのままではできないと思います。長編としての持続が、この映画では構築されていないから。

          大工原 以前、西山さんは「過去に撮った映画をもう一度撮り直してみたい欲望がある」とおっしゃってましたよね。

          西山 『ぬるぬる燗燗』で一度やったことがあるんです。TV版が2つ(『ぬるぬる燗燗』『ぬるぬる燗燗の逆襲』)あって、その最初の方(テレビ版の第1作目)を何年か後にフィルムでリメイクしました。70分ぐらいだったかな。テレビ版とまったく同じというわけではなく、ピンク映画として内容をふくらませたものですが。その時の実感としては、一度やったものをもう一度やるのって、現場でのテンションの保ち方がわからなかったんですよ。だから現場にいた人には、僕がノッてないように見えたかもしれない。ただ、出来上がったものを、去年久しぶりに見なおしたんです。そしたら、案外、というか相当良かったんです(笑)。元の、短いバージョンのよりも、良かったんじゃないかな。撮ってる時にノッてるかどうかというのは、映画の出来とはまた別の何かなんだなと思いました。(西山補足:新しいものを新鮮な気持ちにノッて撮るのと、何か新しいものはないかとしんねりむっつり考え考え探しながら撮るのの違いなんですが、その結果はみなさんにも是非観てもらいたいです。ビデオが出てますからどうぞ。)

          大工原 僕は、一度撮った映画を作り直すなんて苦痛でしかないと思っていたので、西山さんのそのときの発言が強く印象に残っていたんですね。

          西山 たぶんシナリオによると思うんですけど、もう一回それをやるとなると、何段階か戻ったところからもう一回考えなおさなきゃいけないと思うんですよ。映画的な想像力として、いったん、何年か前に戻る作業が要る。そこから、改めて最初のものとは違う新しい何かを探し始める。それを今もしやるとしたら、ちょっと大変かな。

          高橋 一回見えた流れがあって、それをただなぞるだけとなると、モチベーションは上がらないですよね。別の流れを見つけなきゃいけない。それは難しいことだと思います。……というのを、「演出力」の話に振っていきたいんですけど。いろいろ考えていくと、演出って、「編集」なんだよなと思うんです。カットをどうつなぐかの編集ではなくてね。特に大工原さんの映画を観て感じるのは、撮影現場で、俳優さんがどう動くか、どんな間合いで何をやるかという一連の芝居を、練り上げていくじゃないですか。長回しで撮ってはいるけど、そのタイミングにこそ「編集」が為されている。その点においては、舞台も映画も、実はそう違わないんだと思うんですね。タルい舞台やタルい映画って、その「編集」がダサいんだよね。大工原さんは眼の前の芝居を見る時にそこを常にジャッジしている。



          大工原 『恋の季節』は、自分でホンを書いたというのが大きいですね。ある程度、動きが見えているというのもあるし。リハーサルで、スタッフだった後藤くんという受講生が先に同じ役者さんで演出をやったんですが、「ああ、そこはやっぱりそうするんだ、そこはちょっとうまくいっていないけど、あ、後藤くん、自分で気づいたな……」って思いながら見てたら、だんだん芝居が形になってきた。芝居として、人の動きとしては成立しているけど、でもこれを「撮る」となった時のことを後藤くんは考えていないぞ、なんてことを、すごく冷静に観察できたんですね。三人以上の人物が同じ空間にいて、その芝居が面白くなっていくために大事なのは、まずは人の配置ですよね。『旧支配者のキャロル』も人物の配置がことごとくいい。特に撮影現場のシーンでは、十数人の人物がじつに見事に配置されていることに感心しました。これは西山さんの映画もそうなんですが、配置が正しいから一つ一つのカットに力が漲るんですね。映画には、この配置じゃなかったら絶対生まれてこないアクションやエモーションというのが必ずある。

          西山 ビデオになってから、現場でそういう模索ができるようになりましたよね。僕はいいと思います。

          大工原 西山さんは、今日『INAZUMA 稲妻』を観ても思ったんですけど、フィルムの撮り方ですよね。時間を持続させるためのカット割りではない。

          西山 そうですね。そこが、今日観た大工原さんの映画と一番違うところですね。「人をさばく」という言い方があるじゃないですか。人物をどう配置し、どう動かすのか。細かい演技をつける前の段階。ワンシーンの芝居をリハーサルで作っていくとき、人をうまくさばくことで、その芝居にいくつかのカメラポジションが内蔵されたような感覚になると、一番いいんですよね。カメラポジションが見えてくると、付けるべき細かい演技も見えてくる。最初のうちは、カメラポジションが見えない、あるいは、そもそも無い、っていう場合もあるけど、それが、リハーサルを重ねるうちにだんだん見えてくる。映画を作り始めた最初の頃はカット割りばかりを一生懸命考えて、それに芝居をあてはめていくというやり方に、たぶん誰もが陥るんだと思うんですけど、撮りたい映画の内容が複雑になるにつれて、それだけじゃ対応できなくなってくるんですよ。じゃあどうやって構築していくんだ、となった時に、まず芝居を作ることだと。芝居ならどういう形でもいいというわけではなくて、映画の芝居として成立しているかどうかの基準になるのは、芝居の局面局面にカメラポジションが内蔵されているかどうか。そのように感じられるかどうか。それがつまり芝居の「編集」なんですよね。現場における「編集」は、カメラのポジションを基準にして、為されていく。

          大工原 映画における芝居の「編集」については、西山さんが今言われたとおりで、すごくよく判るんですが、高橋さんがおっしゃった、「舞台にも編集がある」というのはどういったことですか?

          高橋 舞台には、カット割りがないですよね。舞台中継だとカット割りがありますが、あれが映画だと感じられないのは、西山さんが今言ったように、芝居に内蔵されたポジションにキャメラが入っていないからだろうと。でもお芝居そのものを観ていると、どんなタイミングで人が入ってきてハケるか、人物と人物の距離感はどの程度で、どこに注目を集めるかというのを、たぶん舞台の演出家も計測しているはずなんです。映画美学校にアクターズ・コースができて、劇団「サンプル」の松井周さんが演出した舞台を2回観たわけですが、松井さんの演出は水際立っていましたね。人の出し入れと、間の計測が周到に計算されていた。たぶんそうとう厳密に、俳優に「そこじゃない、半歩後だ」という細かな演出をしていると思う。しかもそれを僕らは、何の滞りもなく、そこに演出家が介在していることすら忘れて、観ることができる。そうなってくると、それができていない芝居を観るとやっぱり「うわ……タルい……」と感じるんです。何かが、淀んでいる感じ。

          大工原 それはたしかに、脚本だけの問題だけじゃなく、演出時に出てくる「編集」と言えますね。映画美学校のフィクション・コースではいつもそうなんですが、結構面白いホンを書いてきた人でも、撮ってきたものを見ると、演出がうまくいっていないことが多いんです。昨日たまたまフィクション初等科のオールラッシュを観たんですが、一番大事なはずの、後半のクライマックス・シーンがぼろぼろで。監督初経験の女の子だったので、「これ、もしかして初日に撮った?」って聞いたら「そうです」と。

          高橋 初日にクライマックスを撮っちゃったんだ(笑)。

          大工原 そこからすでに間違ってるんですけど。でもこれって、今までの話の流れと逆のことを言うようで心苦しいんですけど、ここで僕らが「もっとメリハリのあるカット割りをした方がいい」とか「この芝居はこっちから撮った方が絶対いい」みたいなことを、彼らに言ってもしょうがないんじゃないかと思えてきたんです。そんなのは、経験を重ねれば誰でもうまくなっていく。だけどこの、壊滅的な下手さこそが、何かの発火点なんじゃないかと。「これは、何にも似ていない映画になるかもしれない!」と本気で思ったんです。青山あゆみさんの『春雨ワンダフル』が、まさにそうでしたからね。あの、下手さがいい。だから最近、無意識の下手さに出会うと、嫉妬してしまったりします(笑)。

          高橋 脅威を感じたいと思ってるんですよね。映画の作法では捉えきれない何かが現れる瞬間をずっと待っている。

          西山 最近は、自主映画がよく上映されるようになってきましたよね。観ると、多くの人が、わりとうまいんですよ。デジタルの力が大きいんでしょうけれど。で、お金をかければかけるほど、どんどん普通の商業映画みたいになっていっちゃうんですね。それが歯がゆい。経済的な何かというのは、映画を作るにあたって非常に大きな条件ですけど、でもそれは必ずしも、映画的な豊かさには結びつかないんですよね。お金をかけることで映画の本質から目がそらされてしまうというか、本質的でないことにお金をかけてしまうというか。逆にお金がなくて一見貧しげな映画のほうにオリジナリティや新しい映画の発見があったりする。それは余計な贅沢を考えずに描くべき本質を見つめるしかないからかもしれない。(つづく)


          「コラボ・モンスターズ!! の好奇心」トークライブ・レポート(その1)

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             お待たせしました。5/24「コラボ・モンスターズ!!の好奇心」トーク採録アップです。
             今回は短篇映画の可能性から「演出」に踏み込んだ、突っ込んだトークになりました。

            「コラボ・モンスターズ!!の好奇心」トークライブ

            高橋洋+西山洋市+大工原正樹(ゲスト)

             


            〇短篇映画の可能性とは?


            高橋 今日のテーマは、「短編映画の可能性」ということで、そこから、大工原さん、西山さんと「演出力」といったことについても、踏み込んで話せたらと思うんですけど。

            西山 このトークのあとに「高橋洋ミニコラボ3部作」が上映されるわけですが、長さが全部、ちょうど9分なんですね。それで今日は仕事で来られなかった古澤健と3人で話していた時に「5分でも15分でもない、9分という短編のフォーマットが意外と面白い」と。9分あれば娯楽映画としてかなり面白くなるところまで展開できるんじゃないかと。そういえば大工原さんも、『恋の季節』という作品が9分で。映画美学校でやっている実習の「ミニコラボ」という枠の中で撮られた映画なんですね。

            大工原 クレジットを抜いて、8分を超えてはいけないというルールがあります。

            高橋 そのクレジットシーンを悪用していろいろやっちゃってですね、8分だと言い張りつつ、実は9分だと(笑)。

            西山 その、時間の使い方ですよね。大工原さんはどうやって、エンターテイメントとしての時間を作っているのかということに、とても興味があって。多くのVシネ作品や最近では『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』という中編映画などもあるベテランで、優れた演出家である大工原さんが9分の『恋の季節』という作品で何をやっているのかと見せてもらったら、非常にタイトにできていて、しかも突拍子もない内容で、面白かったんです。



            大工原 西山さんと高橋さんは、短編を作るとき、「圧縮」ができているものが面白い、ということをよくおっしゃるんですけど、僕の場合は「圧縮」はあまり意識していませんでした。特に『恋の季節』は、キャストによってできた映画なので、4人の出演者をどう絡ませるか、という意識しかなかったです。

            西山 キャストを先に決めたんですか。

            大工原 そうですね。ホンがなかなか書けなくて、撮影間近になってしまったので、スタッフである受講生に役者さんの知り合いが何人かいるということで、でも、本人に会う時間がなかったので、写真を送ってもらったんです。それを、じーっと見ながら一気に書きました。

            西山 そのイメージだけで、シナリオを作った?

            大工原 そうです。その縛りができてから、ようやく書けたという感じですね。

            西山 一方、『純情No.1』は20分ですよね。劇構造自体が全然違う。で、僕の『INAZUMA 稲妻』が30分。それぞれ、どう違うんだろうというのを、考えてみたいんですが。まず使える時間の長さによってそれぞれ必然的に効力を持つ作りがあるような。『純情No.1』の構成は、あるシーンから始まって、なぜそうなったのかという経過が描かれて、もとの時間に戻って、その先が描かれるという、オーソドックスといえばオーソドックスな長編劇映画のような作りですが、20分あればそういう作りが生きる。なおかつ、ヒロインが妄想の中で巨大な敵と戦っている感じがフリッツ・ラングのようで(一同笑)。一方『恋の季節』は、最初にほとんど無根拠にエッチな場面(若い女性がひとり悶える)をばーんとやって、あとは登場人物4人が成り行きまかせの勢いで突き進んで、最初のシーンで出会った二人がキスするに至るまで(場所は映画学校の内部だけ)の直線的な構成で。そして『INAZUMA 稲妻』は、これも登場人物が4人ですけど関係が込み入っていて、人間関係のバリエーションに比例して舞台となる場所や時間も増殖してゆく、そういう多様さは30分の器でなければ入れられないかも。逆に言うと30分あればあれだけ詰め込める。

            高橋 僕たちが作っている短篇映画というのは、通常言う短篇映画どう違うのか、どう言えばお客さんに伝わるのかなと考えるんですよ。それで今回上映された3本を、ハコ(プロット)起こしをやる視点で今日は観てみたんです。それぞれの作品が、どれくらいの数の出来事で成り立っているかをカウントしながら。昔、僕が映画館でよくやってたことなんですけど。映画を観て、家に帰ってから、それをハコに起こしてみる。

            西山 そんなことをしてたんですか。

            高橋 してました。当時はビデオも何もなかったので。自分の大好きな映画は、一体どういうふうに組み立てられているのかを、記憶力をもとに書いてみるんです。のちのち、シナリオライターをやってる人たちと出会うと、みんなそれをやっていた。修行のつもりでやってるんじゃなくて、この映画はどういう風に出来てるのか知りたいという、止むに止まれぬ衝動でやるんですね。アニメーションを志す人は、もっと緻密に、コマ単位で記憶して、絵コンテに起こしてパラパラ漫画のように動きをチェックする。それをしていた僕の友人は、のちにスタジオ・ジブリに就職したんですけど、入社当時、ちょっと自慢げに「俺、昔こんなことやってたんだよー」って言ったら、全員やっていたと(笑)。

            西山 鍛えあげられた人ばかりが集まってたんですね。大リーグみたいだ(笑)。

            高橋 だいぶ話がそれてますけど(笑)。出来事のカウントの話に戻すと、『純情No.1』が20分で、だいたい145個。『恋の季節』が実質8分で、たぶん8個ぐらいだと思います。(高橋補足:出来事の数え方としては、たとえば『恋の季節』で言えば、冒頭、女がオナニーしているだけでは出来事にはならない。そこに男が入ってきて、男女双方がどうリアクションするかの芝居になって初めて一つの充実した出来事となる)

            INAZUMA 稲妻』が30分で、たぶん245個あった。僕らが映画美学校で受講生に教える時、たとえば5分の短編を撮るなら「出来事は5つ考えなきゃダメだよ」って言いますよね。15分なら、15個。でもそれ以上は、尺が増えていくにつれて、出来事の数ってそんなに多くなくても持つようになるんですよ。340分の映画を撮るとしたら、だいたいの目安として20個ぐらいでいいんじゃいないかな。それで考えると『INAZUMA 稲妻』は、相当、圧縮されているんです。凝縮された、ジャンプの多い展開をしている。僕は授業では以前よく「シネフィル・ショート・ショート」とかで放映している海外の短篇作品(クレルモン・フェラン短篇映画祭などで受賞した優秀作)を、受講生に見せてましたね。で、見せてから「こういう映画を作るのはやめよう」と言う。

            一同 (笑)

            大工原 そうなんですよ。高橋さんはそれらの作品を見せる前に「この作品はこんな権威のある賞を取ってるんだ」って言う。だから受講生はみんな、熱心に、感心しながら観るわけですよ。すると高橋さんがおもむろに「こういう、つまらない映画だけは撮るな!」って(笑)。

            高橋 それらがなぜつまらないのか、って考えると、きっと、出来事の数で手を抜いてるんですよね。15分の映画を、5〜6個で何とかしようと思ってる。映画を作る上での基本姿勢として、一つの出来事の魅力が持続するのはせいぜい1分程度と見定めて、より圧縮していった方がいいんだと思います。

            西山 そういう、海外の映画祭で模範とされているような短編映画って、「長編の最初の15分」みたいなことなんですかね。実質的にまだ途中で、もっと展開できるのに、というところまでしか描かれていないような。

            高橋 僕たちが作ろうとしている短編映画は、小説の比喩で言うと「破壊された長編小説」じゃないかと。長編に匹敵する出来事を、短い中に詰め込んでしまう。でも海外の映画祭で評価されているのは、気の利いたショートストーリーを適度な長さで消化している、といった感じですよね。無理くり詰め込むことで起きる、おかしな化学反応ということを、彼らは、はなから考えていない。そこが、僕は不満なんです。



            大工原 今日の3本の中で、やっぱり一番圧縮されてるのは『INAZUMA 稲妻』ですよね。西山さんがその後撮られた、もっと短い『死なば諸共』なんかも、90分くらいの長編に匹敵するボリュームを感じます。今日、僕は『INAZUMA 稲妻』を観て、改めてこれは西山さんだから30分に圧縮できたのだと強く思ったんですが、西山さんは誰かにこの映画を「90分の長編にしろ」って言われたら、どうしますか。

            西山 実は、それを考えなかったわけではないです。シナリオに書かれたドラマや人物のあり方を考えていくと、長編にできないこともないなって思う。海外で評価される短編映画が、例えば15分のうち、出来事を5個しか描いていないとしたら、他に何らかのプラスアルファがあるわけですよね。気持ちや感情の余韻をもうひと押しするとか、説明されなくてもだいたい分かる余白をあらためてきっちり説明したりといった抒情的な場面を付け足したり引き伸ばしたりで、特に新しい展開はない部分が。長編にするとしたら、そういうものがいろいろとくっつくんだと思います。

            大工原 「プロジェクトINAZUMA」のブログに、西山さんが文章を書いておられましたよね。あの映画が作られていった過程について、改めてお聞きしたいんですが。

            西山 一番最初のプロットでは、撮影中の事故で、女優が男優に顔を傷つけられてしまって仕返しをする、という単純な復讐劇の設定だったんです。自分は引退したのに、男優はいまだにスターとして君臨しているのを恨んで復讐計画を考え実行してゆくという。だからどちらかというと、もっとアクション寄りだったんですね。舞台になる撮影現場も特撮ヒーローものに近いような世界でした。それがシナリオでは時代劇という舞台になって、さらに改訂稿で男優がわざと真剣を使って女優を傷つけることを前提にしていた、という展開になって、だんだん仕返しが単純な仕返しではなくなっていく。

            大工原 片桐(絵梨子)さんのホンの段階では、ただの仕返しだったんですか?

            西山 初稿はそうでした、単純明快な。でもアクションシーンがたくさんあるのは現実的に撮影が難しいから、別の方法で盛り上げたほうがいい、と。じゃあどう変えようかということになって。こういう、ねじれたコンセプトをこの話に投入したらどうなるかなと提案したんです。アクションシーンに関しても「ちょっとしたチャンバラならできるんじゃないか」と。こういうドラマなら、日本の時代劇的な風土も生かせるし。ということで、いろんな点と点がつながって新しい世界が構築されていったんです。

            高橋 すでにある程度組み上げられた物語の中で、「これじゃちょっと弱いから、新しいコンセプトを入れよう」となって、その視点から脚本家がホンを読み返すと、そのコンセプトを踏まえて、描かれている出来事を洗いなおすから、たぶん出来事の1つ1つが緊張感をはらんだんですよね。粒だってくるというか。

            西山 そうですね。メインキャストだけじゃなく、脇に出ていた奥さんや消防士も、役割がはっきり変わっていくんですよ。そうすることで、登場人物たちがより有機的につながっていきましたね。(つづく)


            「コラボ・モンスターズ!!の魔」おまけトーク採録(その2)

            0
               〇『何かが空を飛んでいる』!

               

              (『恐怖』)


              高橋:よく、あるジャンルの映画でエポックメイキングな作品が出る時ってあるじゃないですか。それは例えば『羊たちの沈黙』だとか『ロボコップ』だとかさ。ああいう大ヒットしたし、後々まで影響を与えるし、表現としても強い。そういうものが生まれた時になんか観客としても嬉しいし、作り手としても影響を受けるってあるじゃない。なんかああいうのが生まれた時に、これなんでこんなに面白いんだろうって考えると、僕なりの言い方では、ハイブリッド、混交ですよね。

               一番はっきりとそれをかんじたのは、もう昔の映画だけどラオール・ウォルシュの『白熱』っていう映画を見た時に、ギャングスター映画で、ギャングスター映画のフレームで立ち上げたんだけれども、ジェームズ・ギャグニー演じているギャングの親方が、マザコンで完全に狂っているっていう人だったの。狂っているやつを見つけちゃった時、ギャングスター映画のフレームをひとつぽんと越えたときにあれが生まれて、あれが決定的になっちゃうみたいなね。同じことは例えば『ダーティハリー』のサソリとかでも起きている気がするんですけどね。その後のサイコキラーと全然違うじゃないですか。西部のならず者みたいな人が都会にいるんだけれど、でもこの人は狂っているんだっていうさ。まだあの時代、サイコキラーをどう描いていいか分からないから、ああなっちゃったのかもしれないけど。ドン・シーゲルの意図を越えたようなものになったかもしれない。

              そういうことが起きる時にジャンプが生まれて、決定的なものが現れるのかなーって。

               

              古澤:そうですね。ぼくはもう、今日のミニコラボを見て、『キャロル』もそうですけど、高橋さんの『恐怖』よりも全然メジャー感があると僕は感じましたけどね。

               

              高橋:(笑)よくね、“逆にやれば良かったんじゃないですか?”って言われますけどね。『恐怖』も2つの世界っていうか複数の世界がそのままあるって感覚を伝えたくて。

               

              古澤:こういう流れが来ているので、そろそろ大きい映画で高橋さんのをまた見てみたいなって感じがしますね。

               

              高橋:注文があるといいなー(笑)。

               

              古澤:せっかくなんで、お客さんから質問とかありましたら。どなたかいらっしゃいますか?

               

              客1:高橋さんが作品を作られている時に、自分の怖さを重視したいというようなことを仰っていたことを聞いて大変感銘を受けたんですけども、『血を吸う宇宙』なんかだと、非常に宇宙人の恐怖が追求されているんですが、あれなんかは書いていて窓の向こうに宇宙人がいるんじゃないか、とかあるいはドアを開けたら宇宙人がいた、というような瞬間はあったんでしょうか?

               

              高橋:(笑)

              始まる前に控え室で古谷さんたちと話してたんですけど、稲生平太郎さんってご存知ですか? 本名は横山茂雄さんという方なんですけど。

              横山さん、稲生平太郎さんがUFOカルトの研究をされていて、まもなく『何かが空を飛んでいる』っていうこの分野の決定的な本が復刊されるんですけどね。

              その横山茂雄さんとよく話をするんですけど、横山さんも、UFOとか宇宙人があるかないかっていうのは追求する気は全くない。でも、その現象が起きた地には足を運んでフィールドワークするんですよね。そうすると、聞いたこともないような、“光の巨人と山の中で会った”とか、そんな話をいっぱい拾ってくるんですって。そういう話があるから、だから“宇宙人はいるのだ、怖いのだ”ではなくて、そういう現象に立ち会ってしまう事自体に興味がある。スピリチュアリズムなんかも、横山さんは英文学の専門だから文献とか全部読んでいるんだけど、幽霊とかがあるかないか、だとか、あの世はあるかないかとかは何にも興味がなくて、そういうことを考えざるを得ない人間にすごい興味があるという…。

               僕の場合は幽霊にはリアルに怖さを感じるほうなんですけど、宇宙人には流石にね…あんまり感じたことはないんですけど。さっき少し話した暉峻(てるおか)さんはあるんですね。

               寝る時に、連れて行かれると思うらしいんです。布団の中に入る時にベッドメイキングをビシっとやって、折り目を全部入れて、その中にスポッと入って、絶対にこのまま体が浮かないように。迂闊に寝ていると体が浮いて空に連れていかれ、アブダクションされると思ってるらしい。いや、天井につっかえるから大丈夫じゃない?って言っても、「いや、そういうことじゃないんだ!」って。

               

              客1:あ、ありがとうございます。

               

              古澤:(笑)

              今の感じでだいじょうぶでしょうか?

              他の方いらっしゃいますでしょうか?

               

              客2(島田元さん):宇宙人に関してはさすがに自分が信じるかどうかは別だというお話だったんですけど、昔、高橋君と話している最中に、窓のむこうにですね、光の点が動いているのを見てね。

               

              高橋:光の手?

               

              島田元さん:光の点が。ぐーっとこう動いてるのを見てですね、その時にたまたま私が“高橋君、あれUFOじゃない?”って言ったら、真っ青な顔をして“本当だ!”と言ったんですけれど…。

               

              一同:()

               

              高橋:あー、そっかそっか。家に宇宙人がいるとかっていうか、あんなグレイ系とかがぺたぺた歩いてるのとかは何のリアリティもないんですけど、思い出しました。空に何かが現れるんじゃないかっていう恐怖感は、子供の頃からずーっとあるから、それで花火とかも僕怖いんですよね。

              それで島田さんに言われたときについに来たか!と思ったんじゃないですかね(笑)。

               

              島田元さん:わかりました。

               

              古澤:今日『炎の天使』で「ついに来た!」ってセリフがあるじゃないですか?

              あれはちょっとニュアンスは違うんですか?

               

              高橋:あれは自分が起こればいいと思っていたことが、ついに来たって言ってるんだよね。全部自分の都合で言っているっていう。

               

              古澤:ああー、カルト集団って、災厄を予言して、かつそれがくることを待望しますよね。

               

              高橋:そうです。予言実行部隊ですからね、あの人たちは。

               

              古澤:他の方何かありますでしょうか?

               

              客3:えーと、その、宇宙人好き系の時に言ってた、全部ひっくり返っちゃえばいいや願望みたいなのってあるんですか?

               

              高橋:この世が?

               

              客3:そうです。法則とか全部『恐怖』みたいなかんじでくるっと全部入れ替わっちゃえばみたいなのはあるんでしょうか?

               

              高橋:ちょっとニュアンス的にそういう風に言ってしまうと、世の中を怨んでてさ、“みんなぶっ壊れればいいんだ!”みたいなことだと、そういうことは考えていないというか、あまり被害者の立場に立ちたくないっていうんでしょうか。

               

              客3:あ、そういうのじゃなくて。その、今の決まった科学とかが、全く違う法則だったらおもしろいなっていうのは、あるんでしょうか?

               

              高橋:ああ、でもオカルトとかってあれじゃないですか。まじめに研究してる人達ってきっとこの世を説明するもうひとつの別の体系を追求しているじゃないですか。さっきちょっと出たみたいに、あんまりそういうのをまじめに研究する気はないっていうのが、もうひとつの別の世界体系みたいなものは特に求めていないっていうか。説明できる何かが出てきちゃったら面白くないんでしょうね。きっとね。常に外側にある何かなんだろうなって、絶対にたどり着けない何かなんだろうなって感じ。

              『恐怖』でいうと片平なぎさっていう人はその、絶対たどり着けない何かをむりやり、脳をいじくったら見えるんじゃないのって思った人、みたいなことですね。

               

              客3:ありがとうございます。

               

              古澤:ありがとうございました。えー、こんな感じで今後も「コラボ・モンスターズ!!」トークライブ続けていきますので、みなさん、どうかよろしくお願いします。(拍手)


              2013年3月8日 アップリンク・ルームにて


              「コラボ・モンスターズ!!の魔」おまけトーク採録(その1)

              0
                 トークライブ・レポートに続いて、上映後のおまけトーク採録(その1と2)、アップします。

                「コラボ・モンスターズ!!の魔」おまけトーク

                 西山洋市+古澤健+高橋洋



                〇“見立て”の世界が暴走する

                 

                西山:先ほどの古谷さんとのトークを聞いていてひとつ思い浮かんだことがあって、それは“見立て”ということなんですけど。現代的な言い方をすると“パロディ”ということになっちゃうのかもしれないですけど、日本には見立てっていう言葉があって、歌舞伎とか和歌とか、古典で、皆さんもご存知のように、ベースになる世界がまずあって、それを他の何かに見立てることによって新しい作品世界を立ち上げる。観客はベースの世界とそこから立ち上げられた新しい世界の二つを二重に見ることによって楽しむ。そういう創作の手法なんですが、それはある意味、霊媒師の仕事に似ている。つまり、霊媒師っていうのは、ある世界にいながらもう一個の世界を見るというふうにして、2つの世界を立ち上げる訳ですよね。中間にいて両方見るっていうか、呼ぶって言う風にも仰ってましたけど。2つの世界がそこでその人を媒介にして立ち上がるって言うことですよね。たとえば『炎の天使』では、劇団が邪教集団みたいなものに見立てられる。

                高橋:ああ、そうですね。そうそうそう。

                西山:『キャロル』の場合は映画の撮影がスポ根ものに見立てられている。それは以前、作っている時には全然意識していなかったって言ってましたけど。高橋:うん。

                西山:『キャロル』で言うとベースに映画のバックステージって言う世界があって、それをスポ根に見立ててもう一個の世界が立ち上がる。で、なおかつ立ち上がった世界が暴走する。それって霊媒のやることじゃないかなって気がしたんですよね。作り手としての霊媒ということですが。

                高橋:霊媒師だとどういうことになるんだろう?

                西山:「見立て」を「幻視」と言ってもいいんですけど、「幻視」によって立ち上がったもう一つの世界が暴走して、ベースであるはずの元の世界やその価値観が激しく動揺してしまう。ふたつの世界の間に齟齬が起きるっていう感じが高橋君の作品の場合強い気がするんですよ。「え、そんなふうになっちゃうの?」っていう。つまり劇団が邪教集団って、かなり突飛っていえば突飛なかんじで、見た目で言うと、「あれ、なんかのパロディなの?」という、言葉で言うとそういう感じになってしまうのかもしれないけど、そうじゃなくて、2つの世界を立ち上げて、そこに齟齬を作ることによって、新しい世界を切り開いていくって言うような、もう一個新しい映画を作っていくって形になっているのかな?って思ったんですね。

                古澤君の『Love machine』なんかでも『好色一代男』的な、好色ものという

                んですかね、それをベースにして、そこに美人の幽霊が出てきたりという古典落語の趣向を取り入れて、好色ものを古典落語的な世界で作っていく、ということなのかもしれないですけど、古澤くんはそこに齟齬みたいなものがあまり起こらないようにしている感じがするんですよね。トリュフォー的なものが入っていたり、趣向をちりばめてるとは思うんですが、取り入れるものに高橋君が作る世界のような齟齬感、違和感がなるべく無いようにしている感じがしますね。

                古澤:そうですね。僕の世界観はたぶんすっきり明快なんですよ、きっと。あ

                まり濁らないというというか。そういうものが僕は好きだし。幽霊とかを出す

                のも、それで世界が複雑になるというよりは、幽霊を出したほうがこの世の仕

                組みが分かりやすくなるんじゃないか、という感じのところがあるんじゃない

                ですかね。

                 

                高橋:ああ、そうかそうか。じゃあ、わりとさっき話した黒沢さん的な明快さなのかな?

                 

                古澤:…そうとも違うと思うんですよね。

                 

                高橋:今話していると、黒沢さんと議論している時のデジャヴ感が。影響受けてるんじゃないの?(笑)

                あの、黒沢さんはすごいシステマテッィックに、すっきりさせるから。主人公だけはイヤな性格の人にしない、とか。すごいはっきり決めるんだよね。

                 僕がシナリオライターで組んだ時に、主人公もちょっと歪んだイヤな性格にしようとしたら、「それだけは止めてくれ」って。最初何言ってるか分かんなくて。黒沢さんってダークな世界を得意としてますから、主人公が嫌なやつって喜んでくれるかと思ったら、「そこだけちゃんとした人にしてくれ」と。「僕はそこだけ守ってるから、何とかメジャーでやってけるんで」と。それを聞いた時に結構びっくりした。黒沢さんそういうこと考えて…打算的というという意味じゃなくて、厳しい世界に生きているんだこの人は、っていう感じがした。

                 

                古澤:黒沢さんはすごい両極に振れる人なんで、たぶん入り口の脚本作りの時はそうなんですよね。編集の時にそこを自分で裏切ろうとするところが非常にあるなと感じるんです。

                 僕が全部、頭からケツまでついていたのは『ドッペルゲンガー』という映画だけだったんで、ちょっと他の作品の時はどうか分からないんですけど、あの時も脚本では非常に明快に、コイツがドッペルゲンガーでコイツが本体でと分かれていたし、最後にどっちが死んでどっちが生き残るかということも明快にしていたんですよ。

                編集の段階で自ら、こうした方がもっと複雑になるっていう方法を黒沢さんは選びましたね。最終的に。

                 

                西山:黒沢さんの『ドッペルゲンガー』はドッペルゲンガーっていう古典的なベースがあるし、『LOFT』はミイラっていう。それこそパロディになってしまいそうな題材はやっているんですけど、そういう感じにはなんないですよね? 黒沢さんがやると、何かスマートでオシャレに見える(笑)。

                 

                高橋:そうだよね。

                …なんか渾身のギャグをやってるんだよね。『LOFT』で「ミイラのくせに動くな!」っていう台詞があって。

                誰もギャグって分かってくれなかった。あれもすごいよね。黒沢さんの映画は誰も笑えない段階に入っている・・

                 

                古澤:そういうのでいうと高橋さんの作品は、健全に笑いが起きますよね。

                僕今日初めて『炎の天使』見たんですが、トイレでこの人何を覘いてるのかなって思ったら、「きれいなおしっこね。」って。で、「血出るまでやれや!」って言う。

                パロディじゃないですけど、そこの意図するところっていうのは、みんな共有しているからちゃんとギャグになるなーというふうに思うんですよね。

                 

                西山:あの小便は、最後あれ燃えてたんですか?

                 

                古澤:いや、あれ血が混じってましたよね。

                 

                西山:燃えてなかった、あれ?

                 

                高橋:燃えてました。

                 

                古澤:あ、燃えてましたっけ。

                 

                高橋:小便が燃えているって言うよりは、炎が投影されているんですよね。

                 

                西山:反射っていうこと、なんですか?

                 

                高橋:実際に映写してるんです、便器に向かって。で、「血出るまでやれや!」って言われた人が本当に血出ちゃって、その間に起こってることなんだよね、その最中に見たビジョンだったかも、みたいな。

                後から言うとね。そんなことは作ってる時は考えてなかったんだけど。撮ってて一番最後に思いついたことで、シナリオには最初なかったんです。

                 

                西山:それをじゃあ、ある種霊媒的にそんなものが、見えたというか。

                 

                高橋:そうね。隙あらば、なにかもう一つ世界があるかも、みたいなことをやろうとしているという。



                 顔にも炎の投影をしていますけど、ああいうのも、本当は、あれ地獄の炎かもしれないけど、あの人地獄墜ちしているかもしれないっていう風に投影されているみたいな。映画だと、そういう形でふたつの世界をいっぺんに表現することってありますよね?

                 

                古澤:普通、なにか2つのものを重ね合わせるとき、見立てとかそういうのは、何かを分かりやすくするために使うんだと思うんですよ。本来なら、炎をそこに投影するっていうのも、心情の表現になったり、だとか、そういう風に持っていくのが、映画のテクニックとしては普通だと思うんですけど、高橋さんの場合は、重なり合ってるのに、何の象徴なのかも分からないというか、単に2つのものがそのままあるっていう感じがしちゃうっていうか。

                 

                西山:ええ、まあ分離しているといいますか、見立てて立ち上げた世界が暴走しちゃうの、高橋君の場合は。

                 

                古澤:そうですよね。

                 

                西山:それがギャグになったり、変な違和感になったり、スマートじゃない感じになったり、見る人によっては色々な感情をいっぱい引き起こすようなものになっているんではなかろうか、という感じがしますね。

                 

                高橋:ないまぜとはまた別なんですか?歌舞伎でないまぜっていうでしょ。

                 

                西山:それはある世界ともうひとつの世界を持ってきてくっ付けちゃうってや

                つですよね。・・・いや、いろんな言い方をするんでちょっと分かりませんけ

                ど、医者が見立てるって言いますよね?それから占い師なども良く見立てるって言う。霊媒の場合も見立てるって感じの方が合うかなって思ったんです。見て立てる、という語感で。ないまぜは、ひとつの世界からもうひとつの別の世界を立ち上げるというより、あらかじめあるふたつのものを齟齬なく合体させるという感じですか。

                 

                高橋:ああー、そっか。

                 

                西山:ないまぜって言うと、『love machine』のほうがそんな感じするかもしれないですね。好色ものと、落語の幽霊が出てくるものをないまぜてるっていう感じがしますね。

                 

                古澤:ああ、そうですね。僕は何か2つのものを接続しようとはしているんですけど、そこでキメラ的な奇形児を作ろうとはしていないんです。そこでなにか1本生まれればいいなという。高橋さんのほうは、確実にマッドサイエンティスト的にキメラを生み出そうと…マッドサイエンティストは意図してるのかな? でも、何かそういうキメラが生まれちゃうという感じはしますよね。(つづく)


                「コラボ・モンスターズ!!の魔」トークライブ・レポート(その5)

                0
                   〇高橋洋の“恐怖”体験

                   

                  (『恐怖』)


                  古澤:ちなみに高橋さんは古谷さんが分けた黒沢さん清水君と高橋さんが対立じゃないですけど、系譜として“幽霊好き系”と“宇宙人好き系”に分かれた時に違和感とかあったと思うんですが、あの二人との違いってなにか感じたりしますか?

                   

                  高橋:黒沢さんとか清水君とかとの違い?

                  …うーん、とですね。たぶん黒沢さんとか清水君のほうが、システマチックに考えているんですね。それは一緒にものを作っていて感じますね。ホラー映画をやっていて、これは脚本家の小中千昭さんもそうなんですけど、自分が怖いかどうかじゃないんですよね。どうしたら観客が怖がるかを考えて作っていくという。だからある意味職人肌だし、いかに仕掛けていくかっていう考え方ですよね。ほんとに小中千昭さんなんか技術者としてやってるという感じがあるんだけど、僕自身は自分が怖くないと全然乗れない、やる気にならないんです。ゴーストストーリー的なものを書いていて、“これ以上この部屋にいるとでる!”って思わないとだめなんですよ。で、一旦コンビニに逃げて、続きを書くっていう。そういう時が一番ビンビンにきてますよね。そうじゃないとだめですねモノ作ってる感じが。

                   

                  古澤:でも高橋さん自身は信じてない…ですよね?

                   

                  高橋:ない。ないです。信じる信じないとかどうでも良くて。面白ければ。

                   

                  古澤:でも怖くなるんですよね?夜中に。

                   

                  高橋:確実に怖いときってあるんですよ。今でもありますね。“今、今この瞬間をお伝えできれば!”みたいな(笑)。“これなんだよ!”って思うんだけど。

                   

                  古澤:(笑)本当は実況中継したいんですか?

                   

                  高橋:いや多分それ、仮にそこにキャメラがあって、「今、きてます!」とか言ってもね。血相変えてる僕が映ってるだけなんで。

                   

                  古澤:()

                   

                  高橋:何も伝わらないですよ。それはやっぱり物語とか、何らかの手練手管を使って、全然別の形に翻案しないと伝わらないんですよね。でも、感覚だけは、わかるんです。それは夜中にビデオ見てて怖くなるとかよりは、夜中に遅くまで起きて仕事してて、いつも何気なくトイレに行ったり風呂入ったりするじゃないですか? 何かの拍子に最近死んだ友人のことをふっと考えた時に、“今、このドアを開けたら、いるな”って。自己暗示みたいなものだよねぇ。そういうのに自分で入っちゃう時があるんですよ。もう、怖くて怖くて。駄目。“もうこのドアは開けられないんで”って。ちょっとね、ノイローゼみたいになっちゃって、それでDVDとかかけて見ているうちに、解けてくんだよね…。でやっとドアが開けられるみたいな。でもそのドアが開けられずにいる滑稽な、自分でも奇妙に思うけど、すごい強烈な呪縛を抱えてるっていう。これを映画館で起こせばいいんだって理屈ではわかる(笑)。これなんだよね、これ起こしたら勝ちなんだよね。その方法論は…毎回手探りでやるしか無いですね。


                  〇高橋洋と楳図かずお?


                   

                  (『おろち』)


                  古澤:ちなみに今日はこういった形でゲストで招いたので、お客さんの中に誤解されてる方もいるんじゃないかと心配になったんですけど、古谷さんがものすごい特殊な、幽霊とか宇宙人のことばかり語っているような方に受け取られたら、それはちょっと違うんです。ウェブの「偽日記」を読んでいても、本を読んでいても非常に、色んなジャンルに横断的に興味を持たれているというかんじはするんですけど、そんな古谷さんの中でホラー映画の位置づけのようなものはあるんですかね?

                   

                  古谷:あまり明確には無いんですけど、やっぱりその高橋さんがさっき仰っていた霊媒っていう、繋がりを付けるものについての映画って言う感じはあるんです。見えない向こう側を描くのでも、こっち側を描くのでもなくて、向こう側を向いてしゃべっている人が面白いって言うのがたぶんあるとおもいますね。それを色んなやり方でやろうとしている・・たぶん一個の独立した作家とか作品とかじゃなくてジャンルとしていろいろやられてるものが面白いというかんじは多分あると思うんです。

                  とはいっても、そんなホラーマニアじゃないし、ジャンル自体に興味がある訳でもないんですけど。ジャンルとして色々と試されている感じが面白いというのはあるんです。

                   

                  高橋:ぼくもわりとまあジャンルじゃないんですよね。趣味的にジャンルが好きでホラー映画を作り続けるっていうタイプの作り手もいると思うけど、とりあえず仕事する枠をもらったんで、この枠をどうやったら壊せるのかなって考え方をする時が面白いって感じかな。

                   

                  古澤:短い時間なので語り尽くせないところもあったとは思うんですが、最後に高橋監督の作品の面白さ、興味を惹かれる部分みたいなのをお聞きしたいんですが。

                   

                  古谷:だいたい言っちゃった感じで、何度も同じことを言ってるんですが、“幽霊好き系”“宇宙人好き系”って一応言ってますけど、僕が感じるには作品を作っている人とかものを作っている人には“幽霊好き系”が多いと思っていて、僕自身もそこに近いところにいると思っているんですけど。

                   日常があって、曖昧な揺れがあるところで色んな豊かなイメージとか物語とかが出て来るっていう流れっていうのは普通にたくさんいる中で、むしろ積極的に世界を貧しくして、貧しくすることで強くする、そこに強い決定的なものがあるっていう傾向の作品を“宇宙人好き系”ってとりあえず言ってるんですけど、そういう人は僕が知っているというか、感じている限りでは稀なので、そういうところは高橋さんは他のホラーの人とは全然違うって思うんですよね。その感じが僕にとってはすごい面白くて、僕はそれが今日は言いたかったんです。“宇宙人好き系”ということに関して言いたいことっていうのはそういうことなんです。

                   

                  高橋:ちなみに“宇宙人好き系”の映画関係者ってあとはだれかいますか?

                   

                  古谷:…いや、わかんないですけど。映画ってイメージなので基本“幽霊好き系”だと思うんですよね。“宇宙人好き系”って感じるのは映画関係じゃないですけど、楳図かずおさんですね。決定的に“宇宙人好き系”だと思いますね。例えば、この本にもシャマランって書いたんですけど、『シックスセンス』は明らかに幽霊好き系なんですよね。その後ちょっと宇宙人好き系のほうに行ってる感じですけど。それも本当にどこまで地が宇宙人なのか分かんないですけど、僕が感じる限りは楳図さんと高橋さんはかなり深く“宇宙人好き系”っていうイメージがあるんです。

                   

                  古澤:今後の高橋さんの宿題として・・・。

                   

                  高橋:そうですね…あんまり意識しないようにしたいんですけど…。

                  もう明らかに無意識の部分を言われているので、それを意識しないほうが良いだろうと。でも、非常にありがたかったです。

                   

                  古澤:今日お話を聞いて僕は一観客として、高橋さんの作品群に補助線を引いてもらった感じがして、これから見る時、見直す際にいろいろ見方が変わって来るなという感じがしました。

                  短い時間でしたがありがとうございました。(拍手)

                   

                  (高橋補足:後日、黒沢さんと昔からよく話す「怪奇」と「恐怖」の違いって、明らかに違うことは感覚的に判るのだけど、なかなか明確な言葉に出来ないなと改めて考えている時、ふいに古谷さんから与えられたこの補助線が頭に浮かび、ひょっとして「怪奇」とは“幽霊好き系”、「恐怖」とは“宇宙人好き系”なのではと思った。楳図作品は明らかに「怪奇漫画」ではなく「恐怖漫画」だし、小説で言えばアーサー・マッケンは紛れもなく「恐怖小説」で、僕の『恐怖』はマッケンの強い影響を受けています)


                  「コラボ・モンスターズ!!の魔」トークライブ・レポート(その4)

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                     〇『旧支配者のキャロル』をめぐって

                     

                    古澤:まったく偶然だと思うんですが、古谷さんの本の中でも、小説論としてですが、“やっぱり小説のなかで書かれたものっていうのは決定的に起きてしまっていることなんだ、作者がどう思おうが”っていうような記述があって、ある種古谷さんが感じている高橋さんの作品の恐ろしさって、そういう決定論的なものがあるのかなって気はするんですけど。


                     


                    古谷:そうですね…。決定論であると同時に、たとえば、話が噛み合っているかどうかわからないですけど『狂気の海』とかって結局主要な人物が3人くらいしかいなくて、首相と奥さんとアメリカの諜報部員みたいな。3人だけの話なのに、日米の大きな話になっているし、それを越えて日本が沈んだり富士文明が無くなったり3人だけの話が世界のすべてを決定してしまっているという。さっきの話に繋がるんですが、外が無いっていうか、世界のすべてを今ここにいる人たちや語られている物語が決めちゃってるっていう。

                    それが僕が感じるところですけど。

                    それはあまり考えてらっしゃらないですか?

                     

                    高橋:それはかなり意識的にやってるとおもいますね。意識的にというかやるとそうなっちゃうということじゃないですかね。

                    登場人物の作り方や、セリフの書き方や言わせ方、特にセリフにこだわるんですけどね。それをやると必ず、だいたい今日見ていただいたものもほぼ、中原さんやきむらさんが決定的なことを言ってそれで話は終わり、みたいな。人間ドラマとしてはいかがなものかという気もするんですけど…(笑)。でもああいう強い台詞を言うことで切り開かれるフィクションの世界はきっとあるはずだっていう…。

                    でも『キャロル』は、なるだけ人間ドラマにしてみました。()


                    (『狂気の海』)


                    古澤:そのへんはどうなんですかね。高橋さんの変化とみる向きもあるし、いや、やっぱり変わらないって意見もあるとおもうんですけど。古谷さん的にこれまでの高橋さんの作品の系譜の中で『キャロル』を置いてみた時に継続性を感じるんですかね?

                     

                    古谷:そうですね…。違うって思ったところは、分かりやすい、というか余計なものというか混乱させるようなものが入っていないっていうのは違うのかなって思ったですけど、それ以外はそんなに変わってない感じがありますかね。

                     

                    古澤:ちなみにその混乱させるようなものっていうのはこれまでは入っていた感じがしますかね?

                     

                    古谷:混乱させるようなものっていうか、混乱している?だからその、世界全体がおかしくなるのと同時に、世界がひとつではなくなって分岐するみたいな要素が必ず入っていて、どれを本線として見ていいのかわからないところがでてくるとおもうんですよね。『旧支配者のキャロル』は基本的に世界はひとつで行ってるので。それは迷いが無い、というか分裂する感じはないじゃないですか。

                     

                    高橋:うんうん。そうですね、主に今まではギャグ的なことを仕掛ける時に混乱させる要素が入ってくるんですけど、ミニコラボの3本は笑いが取れるか取れないかどうでもいいと思ってギャグをやっているんですけど、『キャロル』の場合はどっちかって言うと今回はギャグは止めておこうと、なぜかって言うと今回は人間ドラマとして人が納得してくれる、まかり間違えば感動してくれればいいなと思って(笑)。そういう魂胆が明らかにあったから、ギャグはやめようねやめようねって言いながらやったんだけど、最後にひやっとしたのはそんなに狙ってなかったんだけど、これが最後のカットだって言う時に自分たちが呼んだ救急車に撮影を妨害され、音待ちになるっていう、あれも目敏く気づいて爆笑してくれる人っているんですよね。だから上映の度ごとにお客さんの反応が違って、今日はすごい途中からみんな深刻な感じで見てくれてて良かったなと(笑)。

                    でもなんかそういう、どう取っていいのっていう両義的なのが入っちゃいますね。


                     


                    古澤:ふたつの世界みたいなことで言うと『キャロル』もやっぱり劇中劇ってこと事態が世界が二重化してますし、劇中劇で語られていることも、壁の向こう側の世界の何かを呼び出そうとするみたいなところでやっぱり世界が重層的というか、さっき高橋さん自身の口から霊媒という言葉も出ましたけど、ある種の媒介とする人物を通じて向こう側とこちら側が繋がってしまうみたいなそういうモチーフがあるんですかね。

                     

                    高橋:それは、なんでこんなに霊媒が好きなのかなと思うとですね、たぶん幽霊を見ても、“あ、あの世ってあるんだ”って“あの世から帰ってきた人なんだ”とはきっと思わないと思うんですよね。まあ原理的に実は“ぱっと見てこれは幽霊だって指差せる存在って具体的になんですか?”ってなったらたぶん言えないんですけどね。よく分からないものを見たとしか言いようが無い。UFOにおけるアンレコグナイズド何とかっていう厳密な定義みたいな言い方が幽霊にもあればいいんですけど、幽霊は幽霊っていった瞬間に“お前認めてんじゃん”みたいな名前の付け方しかないんで、非常に困った単語だなと思うんですけど。

                     きっと幽霊を見ても、そもそもそれを幽霊だとは言えないし“だからあの世があるんだ”とは言えないと思うんだけど、霊媒行為をしている人間を見る時には、それがインチキであれなんであれ、“ひょっとしてあの世ってあるかもしれない”っていう感じをさせる。そういう唯一のもので、さっき古澤君が言った向こう側の世界を呼ぶ何か、“呼ぶという行為をしている以上きっと何かあるんだ”みたいな感覚を呼べる唯一の媒介者ですよね。霊媒って。便利なんですよ。さっき古谷さんが幽霊を認めても世界の一部に穴があくだけと言われたけど、あの世が導入されちゃうと、世界全体がそのままではいられないんじゃないかと。

                    なんかね、きっとそういうの引き寄せられるんじゃないのかな。(つづく)


                    「コラボ・モンスターズ!!の魔」トークライブ・レポート(その3)

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                      〇ひょっとして“霊媒好き系”?


                       


                      古澤:ぼくも“宇宙人好き系”とか“幽霊好き系”とかっていうのは、古谷さんを通して初めてああそういう見方があるのかと感じたんですけど、高橋さんの作品ってそういうある種の世界の広がりっていうか、世界全体が呪われた場所であるみたいな感触っていうのはあるなと僕は感じるんです。

                       所謂幽霊とか宇宙人とかが出てこない、黒沢清監督と組んだ『復讐 THE REVENGE 運命の訪問者』という作品の中で近親相姦をしている一家がいて、あの中で印象的な台詞っていうのが、哀川翔があるヤクザに「お前ら仲間なんだろ」みたいなことを言うと「あいつらと一緒にすんなよ」と「俺たちヤクザも恐ろしいような連中なんだ」と言った瞬間に、ああそういった呪われた種族というかヤバいのがこの世にいるんだという感触というか、『リング』にしてもそういうある種のクトゥルー的な広がり、というかそういうのがありますよね。そういうものはご自分の中で自覚というのはあるんですか?

                       

                      高橋:古谷さんからいわれたその幽霊好き、宇宙人好き、というのを考えながら、今日久しぶりにミニコラボ3本と『旧支配者のキャロル』をとおして見ていて、ひとつ発見したのは、俺って“霊媒好き”じゃないかと。(笑)

                      第三の軸を俺はさっき発見してしちゃった。(笑)

                       

                      古澤:第三の軸っていうのは第一と第二っていうのはなんなんですか

                       

                      高橋:“幽霊好き系”と、“宇宙人好き系”と、いや、そうじゃない“霊媒好き系”があるんだっていう(笑)、いやただ対抗したかっただけなんだけど・・・。

                      でも霊媒っていうのが今日の作品全部に出てくるんですよね。それもインチキを孕んだ霊媒ですね。能力は、ある。あるんだけど、まあ『続・おそらく悪魔が』でいうときむらゆきさんが演じてくれたあの人は念力で飛んで来るフォークを止められるぐらいの力が本当にあるんだけども、分かりにくかったかもしれないけど、チラ見で天窓の下を伺って酒飲んでいる人見たらそれに気づいてないふりをして「あの人アル中でしょ」ってこう、言うじゃん。あれって典型的なインチキ霊媒がやる手口ですよね。能力はあるけど、100%じゃない、と。50%ぐらいであとはあてずっぽうとかズルで言ってる人達っていうのが霊媒の面白いところで。『キャロル』もあからさまな霊媒は出てこないけれども中原翔子さんが演じてくれてる役はなにかを呼ぼうとしている人だし・・・あ、だんだん分かってきた!結局映画を作っている松本若菜さんも、撮影行為っていうのはある種儀式ですよね? 何かを降ろそうとしている。最後に映画の世界に、フィルムの世界にいっちゃったみたいな。きっとそういう…霊媒っていうタームを使うとなんか分かったりしないですかね?

                       

                      古谷:はは…いや…(笑)。

                       

                      古澤:まただんだん話が抽象性を帯びてきたので(笑)、ちょっと引き戻してあの、まあきっかけというか、過去の作品についてお聞きしてみたんですけど、今日の先程上映した4本はDVDではご覧いただいているんですよね?

                       

                      古谷:はい。

                       

                      古澤:スクリーンでは今日初めてだと思うんですけど、ミニコラボとか。率直に見た感想というか伺えたらなと思うんですが。

                       

                      古谷:…そうですね。なんていうか…ほんと“宇宙人好き系”だと思ったんですけど(笑)。

                      たとえば『リング』って霊媒師というか霊能力者が数学者じゃないですか。あれは原作がそうなんですか?

                       

                      高橋:いや、違いますね。

                       

                      古谷:…そういうかんじなんですよ。

                      『リング』で霊能者の家に数式がこうばーっと書いてある黒板があって、それを中谷美紀が+を−に書き換えるじゃないですか?で、そうするとなんか助かっちゃうわけですよ。「アー良かった」って言って帰ってきて、黒板を見て「あー間違ってる」と−を+に書き直してしまって、そのとたんに真田広之は死んじゃうわけなんですよね。

                      なんかそういう“ここに全部かかれている”みたいな。そういう感じが。ここに書かれているものが映画の中で再現されている。で、霊能者が数学者だっていうのも。そういう感じが今日の『旧支配者のキャロル』でも、はじめから主人公のみゆきの負けは決まっているっていう前提であるような気がするんですよ。で、いろいろこうがんばって、でもやっぱり…っていう。まぁ勝ったと思っていたら実は負けちゃうというのが『リング』と一緒っていうのもあるんですけど。で、そういう全部決まっている世界の中ででも、全部決まっているけれど一個一個のリアリティは別にあるっていうところがこう僕の感じる、考える宇宙人好き系な感じなんですよ。

                      ついこの間、黒沢清監督『カリスマ』のDVDを見ていたんですけど、あれはもう色んな立場の人がいて、入り乱れていて、入り乱れているところに役所広司さんが来て、いろいろ迷って、最後にはなんかしらないんだけどなにかを確信するっていう。でも、高橋さんの作品の場合は確信しているところから始まっているって言う感じがあって、そういう感じが、『旧支配者のキャロル』にもしたんですよ。

                       

                      高橋:うんうん。

                       

                      古澤:応募用紙が一種のアカシック・レコードとして機能しちゃっているということなんですかね?



                      高橋:なんか無意識の領域だね…。

                      あの今の数式を直したらやられちゃうなんていうのはもうなんていうか、僕も中田秀夫監督も意識していない。たしかにそういう物語を書いたし、撮ったんだけど、意識してないね、そこは。わかってくださいよって思ってやってないわ…。だからもう無意識の領域のことを言われているという。非常に不気味で面白いけど、あんまり自分では意識しないほうがいいなって思う領域っていうか感じがしましたね。

                       

                      古澤:ちなみにあの当時、ぼくが個人的に高橋さんに聞いたのは、単純に『わらの犬』のダスティン・ホフマンが数学の先生で、スーザン・ジョージがいたずら書きをするのをちょっと真似てみたみたいな、そのぐらいの気楽な気持ちだったんですよね? インスピレーションの部分では。

                       

                      高橋:そうそう。

                       

                      古澤:でもそれが出来上がった映画として届けられたときに、なにか宇宙的なものを…。

                       

                      高橋:こちらが考えてもいない。それは僕らの無意識ですよね。それを読み取っていただいたという。

                       

                      古谷:ちょっとマニアックな話になりますけど…同じ年で『蛇の道』ってあるじゃないですか。あれも数学がでてきて、でなんか男の子が間違った数式を書くと、「そんなんじゃ宇宙がひっくりかえって時間が逆に流れちゃうよ」みたいなことを言って、なんか明らかに繋がりが感じられるんですけど。

                       

                      高橋:それは勿論、数式好きではあるんです。それはそうなんです。だから『わらの犬』の黒板のシーンとか、ヒッチコックの『引き裂かれたカーテン』の黒板対決のシーンとかは、何回も見返して、いいよなって。なんでいいのか分かんないけどいいよなって。そういうとこは黒沢さんも通じるんですよね。

                       

                      古澤:ぼくも古谷さんの話を今伺ってて、ああそうか、とストーンときたのは、なんか文字好きですよね? 文字っていうか何か『狂気の海』とかのタイトルもそうですけど、画面の中に何か表記されているもの、文字とか、そういうのが好きですよね?

                       

                      高橋:そうですね。

                       

                      古澤:直接的な文字じゃないですけど、高橋さんの大学時代の『ハーケンクロイツの男』っていう8ミリ映画だと、クライマックスで人がハーケンクロイツの形になって死ぬという。

                       

                      (『ハーケンクロイツの男』)


                      高橋:「ナチらしい最期よね」とかってね…()

                      ああいうの好きですね()

                       

                      古澤:そこはなんか黒沢さんとはまた違った領域なのかなって感じがしますけどね。

                       

                      高橋:そう、だね…。

                      黒沢さんはやっぱり理系なんだよね。

                      僕は理系に行けなかった人間のコンプレックスがあるんじゃないかな。

                       

                      古澤:なんかもっとフェティッシュな感じで、数式とか文字とか見えた時にそこから何か立ち上がる感じがあったりするんですかね?

                       

                      高橋:フェティッシュかもしれないね。

                      …サイレント映画が好きだから。ああいう字幕がぶっ飛んで来るみたいなのが、やっぱりいいですよね。

                      フリッツ・ラング『ドクトル・マブゼ』のクライマックスも催眠術にかけられて暗示をかけられた男が崖に向かって車で突っ走るっているのがクライマックスなんだけど。

                      ドイツ語で“崖”っていう単語が、道の奥から何度も何度も「崖」「崖」「崖」って飛んでくる。ああいうかんじ。

                      だから古澤君がいったように画面に文字を出すっていう。それを『狂気の海』みたいにああいう神代文字みたいなさ。読めないっていう。そういうのは今後もやってみたいですよね。精神病者が書く鏡文字とか、ものの見事に裏返しに書いちゃうっていう、ああいうタイトルも1度やってみたいなと思いますね。(つづく)


                      「コラボ・モンスターズ!!の魔」トークライブ・レポート(その2)

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                         〇世界全体がおかしくなる

                         

                        古澤:なるほど、宇宙人っていうのを科学的に追求する、論理を積み重ねていくと、現状ある科学と整合性をとらなきゃいけなくなってきて、そうすると、宇宙人を導入した時点で我々が認識している科学的な世界観そのものの変更を迫られるというか、そういう恐ろしさですかね?


                         


                        古谷:そうですね、世界全体がおかしくなっちゃうというか…。

                        よく幽霊の表現とかで風呂に入って頭を洗っている時になにかいる気がすると。でもそれは眼を開ければ誰もいない訳じゃないですか。

                        でも宇宙人とか、いるんですよ。いるって認めちゃうといるし、そうするともう、多様性が無くなって、一気にドミノ倒しになるように世界の法則が違ってきちゃうという感じですね。

                        だからそういう高橋さんの映画に感じるのはそういう、まさに世界全体がおかしくなるという感覚。日常にエアポケットがあってとか、普通の生活があって、どこかに呪いがあって、触れなきゃ大丈夫なんですけど触れちゃったから呪いに入っていくという感じじゃなくて、もう世界全体が既に呪いみたいな、そういう違いですね。

                         

                        高橋:今、聞いていて思い出しましたけど、昔、黒沢清監督と話してて、黒沢さんは幽霊の話と、超能力とか宇宙人の話、例えば、霊能者の人が同時に超能力があったりUFOを呼べるとかっていうことに対してものすごく、“おかしい、別のものなのになんでしょっちゅう、ごっちゃにされるんだろう”ということを言っていて。僕は、いや、それ普通に繋がると思うんだけど、と言ったんだけど、“いや、絶対に違う”と言ってたんです。黒沢さんはすごくそういうところ明晰なんだよね。 

                         それでスプーン曲げで超能力少年って騒がれたK君の話になって、黒沢さんは会ったことがあるんですよ。長谷川和彦さんが連合赤軍のシナリオをずーっと書いていて、黒沢さんが一時期一緒に書いていたんですよ。長谷川和彦さんの家でシナリオの打ち合わせをしている時に、長谷川さんは連赤の話をしているうちに超能力系に行っちゃったんですよね。連合赤軍のメンバーがみんな超能力者みたいな話にまでもうぶっ飛ぶしかなくなってて。それで、K君のことも取材を始めていたんです。K君が電話で呼び出されて“今からK来るよ”とかって長谷川さん喜んでて、いそいそとスプーンを選んで。で、黒沢さんがすごいそれを露骨に、“何言ってんだ”って。科学少年だからね、黒沢さん。信じてなかった。で、目の前でK君が“今日調子いいな”なんて言ってこうやったら、ほんとにパキッとスプーンが目の前で折れたんだって。それは、MR.マリック以前の時代なんで、目の前でそれやられたらもうびっくりすると思うんですよ。K君がトリックだって言ってるんじゃないですよ。マリックみたいなあんな高等なマジックがあるんだっていう事が僕らの発想に無かった時代なので。もうびっくりしちゃって。で、黒沢さんは“俺は、そこで大きな決断を迫られた”と。一晩中、丸一日スプーンを手に家に閉じこもって、曲げようとしたんだって。で、曲げられなかった。で、“わかった”と。“K君があるって定義した世界はあるのかもしれない。でも、俺はそっちは選ばない。”ってそこで態度決定したって。なんて明確な人なんだろうと。

                         

                        会場:()

                         

                        古澤:でもそれはちょっと難しいですね。そっちの世界はあるけど、自分はそっちの世界は選ばないって自分で決めたら、もう別のものとしてあるっていう黒沢さんの認識なんですかねそれは。

                         

                        高橋:黒沢さんも頭ごなしに無いっていうんじゃなくて、目の前でそれが起きちゃったら、もうそれは認めざるを得ないけれども、なんか黒沢さんってそういうところ割り切るよね。そっち行っちゃったらまずいんだって。それは分かった。俺は認めようが無い世界なんだってバンっと外へ、切るんですよね。

                        僕も僕でその後K君に会っていて、それは『リング』の時なんですよね。『リング』って、呪いのビデオが念写じゃないですか。念写ってどういうことか良く分かんなかったんで、取材したいっていったらそれがK君で。その時はもう30代だったけど。すごいナイーブな、傷つきやすい、目の前でスプーン曲げてみろって言われ続た人の、バリア張ってきたかんじがありました。僕はもう全然目の前でスプーン曲げるとかどうでもよくて、つまりあなたのやってることを信じるとか信じないじゃなくて、面白いネタが聞きたいだけですって言ったら態度が和らいで、念写の写真とかみせてくれて、それはすごい参考になったんだけど。で、がんがん二人で飲んでたら、やっとなんか「話せるようになってきました」って言って、「実はおれ霊が見えるんです」って。これを言うと、そこでもういききなりカットアウトされるんだとと。スプーン曲げまではまだみんな付いてきてくれると。だからさっきとは逆ですよね。スプーン曲げまではみんな話し聞いてくれるんだけど、実は霊が見えるって言ったとたんにもうインチキっていう扱いを受けるから、もうこれはよっぽど酒が入って、相手も大丈夫だと思った時しか言えないですって。「見えます」と。超能力者は見えるらしいですよ。フフフ(笑)。

                         

                        古澤:え、今の話はだから、黒沢さんが幽霊の話とUFOの話ごっちゃにするなっていうのに対して、違和感があるのは、高橋さんの中ではそれは一緒ということですか?

                         

                        高橋:そうなんですよね。

                         

                        古澤:実際にK君という人に会ったときに?

                         

                        高橋:そうそうそう。

                        で、その時に話してくれた話がものすごい恐くてね。あーこれは思いつかんって。まぁそれは今日はいいんですけど。

                        いやーだからそんな感覚があるもんですから、あんまり僕の中で“幽霊好き系”、“宇宙人好き系”ってあんまり分けてないんだろうと。

                         

                        古澤:さっき古谷さんの話をお聞きしてて感じたのが、古谷さんのなかの幽霊の定義というか、幽霊の場合は対個人というか見た本人に人生の決断が迫られるっていうか、世界観の認識が迫られるけど、その時にその人以外の世界は、昨日と変わらず明日も続くだろう。さきほどエアポケットという言葉も出てきましたけど。ある特殊事例みたいな感じで、映画を見ていてもこれはこの人の人生において起きた特殊事例なんだというかんじで、一方宇宙人好き系と仰っているのはこの映画の世界観を認めたとたんにこの映画の登場人物ではない自分たちも世界認識の変更を迫られるような恐ろしさ、みたいなことなんですかね?

                         

                        古谷:そうですね…そうなんですけれど。それ以前に映画の中の世界が呪い以外と呪いの世界と分けられる、で、登場人物は呪いの世界に引き込まれるかもしれないけれど、引き込まれていない大多数の人が世の中にいる、っていう世界前提で物語があるっていうのと、もうすでに呪い以外の場所には誰も行けないし逃げられないっていう前提で物語があるっていうのの違いで、見た人がどうかっていうのとはまたちょっと違うのかもしれないですね。それはそっち(宇宙人好き系の作品)のほうが見た人は始めから冗談と思って距離をとって見るかもしれない訳です。大抵はそうだと思うんです。日常生活があって呪いがあるほうが怖いんだと思うんです。自分の地続きのところにあるので。

                        はじめから狂った世界は狂った世界として見ればいいので、笑ってればいいぐらいの感じはあるんだと思うので、宇宙人好き系のほうが作品として成立させるのは難しいと思うんです。

                        だからその違いは僕には明らかに見えるんですが、違うんですかね?

                         

                        古澤:それは高橋さんの世界認識がどこか歪んでいるかんじがするっていうことなんですかね?

                         

                        古谷:いや世界認識が歪んでいるというか、それは高橋さんがどういう方かは知らないですけど(笑)、作品を通して見て感じられる共通した感触っていうのがあるっていうことですよね。(つづく)


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